マガジンのカバー画像

脱学校的人間(新編集版)

87
学校は、そこからほとんど全ての人間を社会へと送り込み、だいたい同じような人間として生きさせる。ゆえに学校化は実際に学校がある社会ばかりでなく、学校のない社会でこそより強くあらわれ…
運営しているクリエイター

#ノンフィクション

脱学校的人間(新編集版)〈イントロダクション〉(「note創作大賞2022」)

脱学校的人間(新編集版)〈イントロダクション〉(「note創作大賞2022」)

 ―人間は、なぜ学校を必要とするのか?
  学校は、人間に何をさせようとしているのか?―

 学校は、そこからほとんど全ての人間を社会へと送り込み、だいたい同じような人間として生きさせる。ゆえに学校化は、実際に学校がある社会ばかりでなく、学校のない社会でこそより強くあらわれ、その欠乏は学校化への欲望をより強く引き起こす。そしてこの病は、その人間が死に至るまで終わらない。
 本稿では、世界中に蔓延す

もっとみる
脱学校的人間(新編集版)〈14〉

脱学校的人間(新編集版)〈14〉

 世間一般においては、「教育問題」なるものが時折沸き起こることがある。そのような「問題」が取り沙汰されるようなときにはたいがいにして、「今の教育の一体どの部分がどのように問題なのか?」とか、「なぜそれがうまく機能していないのか?」とか、「いかにすれば教育はうまく機能するのか?」とか、「よい教育とはいかなるものか?」とかいったように、もっぱら教育の「いかに・どうすれば」という部分が喧しく議論されてい

もっとみる
脱学校的人間(新編集版)〈15〉

脱学校的人間(新編集版)〈15〉

 教育の「問題」とは、あらかじめその問いの解が設定された上で問題化されていると考えることができる。ゆえに一般に何らかの「教育問題」が考えられるとき、そのような問題を生じさせる「構造」が実は制度そのものによる作用であるということを、それこそ「構造的に見落とされている」あるいは「意図的に見逃されている」のである。だから、たとえいくらその問題点に即して現行の教育内容を見直し、より望ましい教育に作り換えた

もっとみる
脱学校的人間(新編集版)〈16〉

脱学校的人間(新編集版)〈16〉

 全ての人間が何らかの形で経由することになっている学校の、その具体的な経由プロセスについて少し見ていくことにしよう。
 全ての人間が学校を経由する社会において、ある一定の年齢すなわち「学齢期」になると、子どもたちは「入学」という形式で、それまで生活していた身近な世界、たとえば家庭や近隣地域から「外」に出て、「学校という新しい世界の中」へと入っていく。その新しい世界の中で「子どもたちは家庭を離れ、新

もっとみる
脱学校的人間(新編集版)〈17〉

脱学校的人間(新編集版)〈17〉

 人は学校という限定された空間で物事を学ぶものだと一般に考えられている。では、そもそもその「学ぶ」という行為とは、一体どういうことを言うのだろうか?
 「学ぶ」ということは、ある行動様式を主体的に再現することについて、その再現のためにとるべき行動の「様式・形式を学ぶ」ということである。たとえば算数を学ぶのであれば、人は単に数や計算式「だけ」を学ぶのではなく、それらを用いることによって実際になされる

もっとみる
脱学校的人間(新編集版)〈18〉

脱学校的人間(新編集版)〈18〉

 人が実際に学ぶことにおいて、そこで学ばれた一つの行動様式を、たとえそのように「実際に学び取った行動様式」として規定するとしても、しかしそれが「常に新しい行動様式として学ばれる限り」は、実はそこでは「行動様式として規定されていないものも含めて同時に学ばれている」ことにもなる。言い換えると、人がある一つの行動様式を学ぶとき、それを「常に新しい行動様式として学ぶ」ことにおいて、「その行動様式を規定する

もっとみる
脱学校的人間(新編集版)〈19〉

脱学校的人間(新編集版)〈19〉

 人は誰もが学校という限定された空間で学ぶものである、というように一般では考えられているわけなのだが、実際にその学校の中においてなされている教育の、その対象となっているのは「誰なのか?」といえば、それは言うまでもなく「子どもという限定された時間」を現に生きている、ある特定の人間たちである。
 子どもという者らは何よりもまずそのように、教育の対象として設定されることになる。子どもという者らはそのよう

もっとみる
脱学校的人間(新編集版)〈20〉

脱学校的人間(新編集版)〈20〉

 現在、教育とは子どもを対象としてなされるものだとして、それが全く自明のことと一般に考えられている。転じて言えば、教育の対象となる者は何よりもまず「子ども」と見なされることとなるというのもまた、自明なことであると思われているわけである。
 しかし、かつて「子どもは子どもとして扱われてはいなかった」(※1)のだという。彼らはいわば「小さな大人」として、その存在としては全く「大人同様」に扱われていたの

もっとみる
脱学校的人間(新編集版)〈21〉

脱学校的人間(新編集版)〈21〉

 かつて「小さい大人=子ども」は、大人がしていることをそのまま教えられた。見方を変えれば、それはつまり「大人がしていることを、大人と同様にさせられていた」わけだが、しかしそのように教えられたからといって、彼らがそれを実際すぐにでも、そっくりそのままできるようになるかどうかはまた別の話である。
 どのような子どもであれ、はじめから何でも教えられた通りに「何もかも大人そのままにできた」というわけではあ

もっとみる
脱学校的人間(新編集版)〈22〉

脱学校的人間(新編集版)〈22〉

 かつて子どもが子どもとして扱われていなかった時代、ある特定の技術をもって生業とする職能の社会に生まれ育った「子ども=小さな大人」たちは、それぞれ弟子入りした先の師匠や親方から、その目当てとするそれぞれの技能を習得し、いずれは「一人前」になって自身と家族を養う日用の糧を得るため、ごく淡々と日々の仕事をこなしていく人生行路へと入って行った。
 一方で、そういう職能階級の上位に立っていた当時の支配階層

もっとみる
脱学校的人間(新編集版)〈23〉

脱学校的人間(新編集版)〈23〉

 産業社会の支配者たるブルジョワジーは、その社会に生きる全ての人々を、彼らブルジョワジーと同様に生きさせようとする。
 ブルジョワジーは自らの営む生活様式を見本として、世に生きる全ての人々に対して「ブルジョア風生活様式」への羨望を抱かせ(一方で、そのブルジョワジー自身が憧れていたものとは言うまでもなく、かつての支配層が表現していたような「貴族的生活様式」であっただろう)、全ての人々がこぞってブルジ

もっとみる
脱学校的人間(新編集版)〈24〉

脱学校的人間(新編集版)〈24〉

 ブルジョア階級の社会的な支配力の裏付けでもあったところの、その経済的な成長の推進力は、しかし彼らブルジョア階級「内部に限定された力」によってではけっして生み出せないものだった。そのような力を生み出すことのできる「成長の現場」はブルジョア階級内部にはなく、あくまでも「社会」の方にあったのである。
 ゆえに「社会全体」が成長発展するのでなければ、それはけっして彼らの「力」にはなりえない。その「力」を

もっとみる
脱学校的人間(新編集版)〈25〉

脱学校的人間(新編集版)〈25〉

 吉本隆明は、ヘーゲルの『精神哲学』を引用しつつ、「子どもというものは、自身として何ものかになるべきイメージは持っているのだが、しかし今現在はまだその条件を獲得しえていない、ゆえに一刻も早くそのイメージを現実のものとして獲得することへの渇望がその内心には強くあり、それがまた教育の実効性というフェイズに強く結びついている。子どもの中にある『早く大人になりたい』という欲望、しかし現在の自分はそれを欠い

もっとみる
脱学校的人間(新編集版)〈26〉

脱学校的人間(新編集版)〈26〉

 「大人になること」を要求される一方で、子どもは「子どもらしくあること」も同時に要求される(※1)。
 「お前は大人ではない。大人に対して欠如した存在である。だから、その欠如を埋めて早く大人になれ」というのが、まずは大人から子どもに課せられた、一つの重大な使命となる。そしてそれと全く同じ条件において、「お前は大人ではない。大人に対して欠如した存在である。だから、子どもである限りは子どもらしくあるた

もっとみる