本能寺の変1582 重要 ◎第17話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
◎第17話 4光秀の苦悩 5分かれ道 2/3
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*以下は、重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。
*加筆修正
◎細川藤孝が光秀一行を出迎えた。
宮津に到着。
そして、饗応。
心地よい時が流れる。
四月十二日の朝、 長岡与壹郎殿の振舞
一、御人数 惟任日向守殿父子三人
長岡兵部太夫殿父子三人
紹巴 宗及 宗二 道是
本膳七ツ、二膳五ツ、三膳五ツ、四膳三ツ、五膳三ツ、引物二色
以上七の膳なり、
菓子むすび(結)花にてかざ(飾)り、十一種なり、
◎「惟任日向守殿父子三人」
一人は、十五郎光慶。
もう一人は、秀満のことであろうか。
◎「長岡兵部太夫殿父子三人」
細川藤孝、嫡男忠興(与一郎)、二男興元(頓五郎)。
◎細川忠興は、光秀の娘婿である。
光秀の三女という。
後の細川ガラシャ。
忠興から光秀へ。
太刀を進上。
一、御酒半に、地蔵行平の太刀、
与一郎殿より、日向殿へ御進上候なり、
(「天王寺屋会記」)
◎光秀は、風流の人だった。
「紹巴 宗及 宗二 道是」、とある。
里村紹巴は、連歌師。
津田宗及・山上宗二・平野道是は、茶人。
何れも、当代一流の文化人である。
◎光秀、天橋立に遊ぶ。
「戦のない世」
その有難さが身に染みた。
最良の一日であった。
同十二日の巳の刻に、
九世戸へ見物、かざり船にて、并びに橋立の文殊にて御振舞これあり、
一、俄(にわか)夕立の雨ふりて、 兵部大夫殿藤孝
夕立のけふハ(刃)はハや(早)き切戸哉、
一、紹巴と、日向殿と、太夫殿と連歌あり、
九世戸の松になへ松といふ松なり、其れについての発句あり、
うふ(植)てる松は千年(ちとせ)のさなえ(早苗)哉 光秀
夏山うつす水の見なかみ(水上) 藤孝
夕立のあとさりげなき月見へて 紹巴
(「天王寺屋会記」)
◎実に、好対照な出来事であった。
たまたま、偶然が重なっただけである。
しかし、「陰」と「陽」。
あまりにも、際立つ、その違い。
やがて、それは、あの大事件へと繋がっていく。
◎信長は、竹生島参詣後、女房衆を誅殺した。
これが、本来の姿なのだろうか。
信長は、絶対専制君主。
ただ一人の存在なのである。
他の誰よりも、大きな夢があった。
それへ向かって、一直線。
ひたすら、突っ走った。
それが、信長の生き方。
己の、生きる道。
為すべきこと。
やり遂げなければならぬ、目的だったのである。
難題山積。
緊張の日々。
そして、完璧主義者で。
頭の回転が速く。
「隙」を見せず。
気力・体力が充実し。
図抜けた、実行力があった。
これもまた、個性なのだから、仕方がない。
休む間など、皆無だった。
心身ともに。
多忙を極めていたのである。
心の余裕を失っていた。
・・・・・、のではないか。
◎光秀は、天橋立に遊び、連歌を楽しむ。
これが、光秀の実像である。
信長とは、異なる部分を有していた。
光秀は、心(しん)から、茶の湯・連歌が好きだった。
武将でありながら、文芸を好む人物だった。
それ故、宗及ら文人を同道した。
正に、「忙中閑あり」、である。
光秀には、このような一面があった。
◎光秀は、節度の人。
己の分を弁(わきま)えていた。
佐久間信栄(信盛の嫡男)は、深入りしすぎて、その身を滅ぼした。
この違い。
まことに、雲泥の差である。
◎光秀は、文武両道の人。
そして、その反面。
光秀は、権謀術数に長け。
目的のためには、手段を選ばず。
信長の家臣として。
また、戦国武将として。
為すべき時に、為すべきことを。
躊躇なく、成し遂げることが出来た。
信長にとっては、まことに、重宝で、得難い人材だったのである。
⇒ 次へつづく
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「本能寺の変」
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