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#文学
拝啓 読書様。これが私の遊びで、続く葉脈になります。
私が貸した星野道夫の「旅をする木」を手に持ち、後輩が私のもとにやって来た。
「お返しします」
私は、この後輩を密かに読書好きにさせるように遊んでいる。遊んでいるというよりかは、遊んでもらっているのかも知れない。本に興味があると言った後輩は、彼女が読んでいるという伊坂幸太郎を好きかどうかを私に聞いてきたことが始まりだった。
私は、朝会社でわざと読書をしている。わざとだ。いつか「窓際の読書さん」
そして私は行列に並んだ。
行列に久しぶりに並んだ。待ち時間は一時間以上だという。三列にキレイに整列して並び、誰一人文句も言わずに指示に従っている。知らない人と横に並ぶ不自然さを隠すために、私は先日購入した短編集を鞄から取り出した。
この本の作者は、書くことが好きなのだと伝わってくる。どの短編もとても物語に誠実だ。真っ直ぐに文体に表現される誠実さは、私が書こうにも書けるものではない。ひん曲がった性根の私には、キレイな文章に
恐怖から見つける自分への疑惑。続くのは、大江健三郎を再び読める日まで。
大江健三郎と古井由吉が、対談している。
大江健三郎は、「短編の文章の緊迫を復活して、日本の文学、表現の世界を再建する必要があるんじゃないか。」と言っている。
古井由吉は、「言葉がぼろぼろに崩れがちな時代ですし、これは敗戦に劣らぬ文学の危機ですね。」と言っている。
大江健三郎が亡くなって、大江健三郎を読めなくなった。どうすることも出来ない気持ちが続いていて、新潮名作選「百年の文学」を読みはじめ
1972年の時代評論は、めぐりめぐって私に届く
めぐりめぐってなんてお言葉は、都合の良いお言葉でございます。ですが、そういう場合も世の中には、めぐりめぐってあるんでございます。
まったく予定にない本を読みました。どうして私が出会うことになったのか。物語は複雑な経過を辿ります。
思い返せば2月下旬、一つの記事がアップされました。
私は、この記事の文字の裏にある夫婦の愛情の交換に思いを馳せ、半ば羨望の眼差しを向けながら、「共通の趣味でケンカ
かなりタイプの女性と老人にハルメイタ日は。
少し肌寒く、桜が咲き誇るのを我慢していた日のはなし。
満開を感じる前に行くべきと考えた。いや、会いに行くべきと考え直した方が正しいのかも知れない。
私は、少し遠回りをして春を感じたかった。
かなりタイプの女性がいるお気に入りのコンビニは、海に面しているこの街では、その象徴を海に全てを奪われてしまい、存在を忘れられそうな山側の場所にあった。私は、時間をかけてその忘れられそうなコンビニへ向かい珈
大江健三郎の一つの出口にあたる作品を読み、私の出口は入り口かもしれないと思ふ。
大江健三郎27歳の長編作品「叫び声」を読んだ。これは、以前いだいた本からだ。大江健三郎が描く青春の鬱屈は、こうなるかと考えた。
その心の叫び声を表現するのに、こういう物語になるのかと感じていた。「生は性」であると最近聞いて納得していたが、こんなに近くて遠い「生は性」が、間違いなく存在していて、それが確かに青春だったなと感じながら、自分の想像を簡単に越える表現力と、それを描く世界観が面白くて悔しい
彼に傷付けられながら、授けた仕事と価値の人生訓。
会社の後輩と片道90分ほどかかる場所へ向かう事になった。彼は、私をnoteに誘った男だ。彼は、車の鍵を私に渡すとこう言った。
「コニシさん。自分、車30分以上運転すると疲れちゃうんで、運転してもらっていいですか?」
彼は私が疲れる事を、その事実はまるで存在しないかのように、一瞬の澱みもなく言いきった。
私は、鍵を受け取るという選択をせざるを得なかった。
横須賀に向かう車は、湘南海岸を右手に
向田邦子からの菊池寛。「嫌ですよね」から考える「人」となり。
人は自分が思考するほど、人や自分の事など気にもしていない。
これはたぶん私の言葉だ。
私の言葉だろうが、それが何だろうが、誰も別に気にしていないだろう。だがそこに、第三者の目が入ると、心に生まれてくるのは、それを確かな物にしようとする自尊心や虚栄心だ。
人間は、厄介だ。
自己の完結で済まない承認欲求や、人との比較から本来しなくてよい筈の嫉妬をしたりする。
私は、自分の思考の裏側を考えるの
純然たる下心から影響を受けやすい私は、秒で小津安二郎の「東京物語」を観賞した。
日常を切り取る。簡単に使用するが実際は変化を感じ取る事が必要だ。
時間が一定の方向で流れている時に、物事の変化にはまるで気付かないように人は鈍感になる。
日常を切り取り、そこに残してくれた作品に触れて自分を感じる事がある私の本質はどこに存在するのかと考える。
文字に触れる事で、自分の心の変化を敏感に感じる現在は、自然と自分に必要な情報を得るアンテナの感度が優れている状態であると思いたい。これ
僕の海と真偽がわからない目元の女性。村上筋肉倶楽部~奪取DASHダッシュ編~
僕が、ぎっくり腰になってからというもの僕の世界は、少しぎっくりしているようだった。それに気付いていたが気付いていないフリもしていた。僕は、僕の世界を取り戻さなければならない。
村上筋肉倶楽部~奪取DASHダッシュ編~
僕は、片道1時間かけて訪れたこの世界でいう商談に僅か5秒。水筒の蓋を開けて口に含んで味を感じる間もないほどの時間で断られた。
それに費やした時間は、合計すれば半日程だ。
僕の中
高橋源一郎の「さようなら、ギャングたち」の疾走に思いっきり声を掛けた。
読書を巡る旅の途中に、出会うべく出会うような、出会いの本があったりする。それは僕がそう思って生きているのだからそうなのだ。
自分の人生に彩りをつけるのは自分でありたい。noteにおいてそういう出会い方は初めてで、即読んだ。
noteは、どうやって僕の好みの記事を見つけてくれているのか。この記事にすぐに惹き込まれた。本当にありがたい。
それは、高橋源一郎の「さようなら、ギャングたち」について海
出会う本と、その役割について森絵都から考えることになった私は、自分の役割を問う
たまに、読んでみて欲しいと言われる本を紹介されるようになった。
こういう事は、今まで全くなかった。近くに1人も読書を好きだと話す人も居なく、読書に興味を持っている友人も居なかったからだ。
今のように、SNSなどで頻繁に本と出会えたり、その人の感想を読むことで「その人」の人となりが分かるのも面白いと感じる。
なるべく読んでみて欲しいという、そのリクエストには応えたい。それは、本が好きだし自分が
一人の作家を通して、実際出会うまでに至る引力を知る。それが大江健三郎の凄さだ。
僕は大江健三郎が「大切なことを正面にもって来る」というのを小説のスタンスとして持っているのを大江健三郎のエッセイから知った。
大江健三郎は、僕の読書に於ける尤も核になる部分に潜んでいる。まだ数冊しか読んでいないのにだ。これを言い切れる僕は、大江健三郎を介してのSNS上でのその特性を活かした特別な出会いをある方達としている。
その方達が書くその文章には、大江健三郎の熱をそのまま帯びたような感触で
谷崎潤一郎と江戸川乱歩の関係に嫉妬を積み重ねる文学中年
「あなたは、知っているのかしら。知らないにしても知っているにしても、あなたと私に続きがあるのかは知らないけどね」
なぜ私の周りにはこういう女性が集まるのか。それに答えを見つけるのはあと10年後くらいでいい。そもそもこんな誘われ方をして、誘いに乗らないならば、それは私が私を辞めなければならない時だ。
何のきっかけだったのかは覚えていない。
きっかけを探るその言葉より、その後告げられた話の方が私を