1972年の時代評論は、めぐりめぐって私に届く
めぐりめぐってなんてお言葉は、都合の良いお言葉でございます。ですが、そういう場合も世の中には、めぐりめぐってあるんでございます。
まったく予定にない本を読みました。どうして私が出会うことになったのか。物語は複雑な経過を辿ります。
思い返せば2月下旬、一つの記事がアップされました。
私は、この記事の文字の裏にある夫婦の愛情の交換に思いを馳せ、半ば羨望の眼差しを向けながら、「共通の趣味でケンカ出来るのもある種の幸せだと感じるなぁ」と、次の人生は共通の趣味の異性と遊び続けようかなと目標を立てておりました。
そして、半年ほど読まずに積んでいた妻への夫の本の紹介が、怒りの中にあるとは思わせず、まさに丁寧でその本を手に取りたくなるほど、愛情に溢れていたことにビックリしたのでございます。
こちらに原文そのまま、拝借させていただきます。以下、引用。
●『一九七二』 坪内祐三
どうだろうか。これを読まずの半年の妻に向けて言えるだろうか。私は、少なくともここまで丁寧に無償で語れる気はしなく、世の中って幸せで溢れているんだなぁと記事を読んでいた。
ここまででもすでに、いつか手に取ってみたかったのである。
駄菓子菓子
物語は、風雲急を告げる。
読まなかった喧嘩の遠因の一つに、大江健三郎を読みたくなってしまったことがあげられていた。
わたしのエイキョウでと。
「なんてこった」
久しぶりに自分の口から発せられた「なんてこった」にビックリしながらも、急に登場してきた自分に、あんたも罪な男よねと、言える余裕もなくなにかの間違いかも知れないと、一旦記事を離れ、落ち着いたあとにもう一度読み直すことにした。
先ほどとは、うってかわり幸せだったはずの夫婦喧嘩の有り様にただただ、「なぜ読まないんだ‼️」「何で読まないんだ‼️」「早く読め‼️」と完全に心変りしている自分がいたのでございます。
これを、急な当事者我失う。と名付けました。
なぜか、浮気がバレたような罪悪感に襲われた私は、読もう。この本は私が読むべきだと決心した次第でございます。
長々お書きしましたが、ここからが本題です。
この本の読み方を、前段の推薦文のようにマルチヒストリーと知って読んで良かったと思う。私は、1982年生まれなので高度経済成長期の終焉やその歴史は、文献でしか知り得ない。
歴史は、時が経過するとどんどん簡略化される。高度経済成長期。この言葉でもわかるようにその一言で済まされてしまうのだ。
私にとってのこの本は、ミステリー小説のようだった。性風俗、経済、事件、スポーツ、音楽どれも横並びで同じ時間軸を紐解くような調べ方。
当たり前だけど、一部始終を知れる人間なんていない。ということを知れた。だけど確かに、ほんの少しだけやっぱり微妙に繊細に、横でそれぞれが繋がっている。同じ時間軸を体験している瞬間が存在していることを知った。
繋がりを知るのに、人はたまに大きな事象を題材にする。
「あの時、なにしてた?」
これは、お互いがお互いを同じ時間軸に存在していたことを確認し合う一つの行為なのだと感じた。
時代を評論するのに、起きたことを並べて検証するこのやり方は、やっぱり事実は面白いということを感じさせてくれる。
実感として体感していない私は、この本で1972年を体感し、もしかしたらこの先に、
「1972年のことを最近知ったのですが、あの時実際どうでした?」
って聞くかも知れない。この本は、1972年の大きな日記みたいに感じた。人の日記の1ページをもし覗いても、そこにある書いてあることをそのまま鵜呑みにはしないだろう。
だから、1972年のこの本が事実かどうかより、読んだ人にとっての事実であればいいと思う。記憶は探れるし、人は共感を出来るから。どこで何をしてるか、皆バラバラだけど集合体なのだろう。
その時間は、確かに存在したはずだから。
なんのはなしですか
人はフワフワしてると認識した。めぐりめぐって読んでみて、ハルカさんに会うときが来ればこの本をプレゼントするべきか迷っておる。
駄菓子菓子、それはしないだろう。
急な当事者我失うになってしまうから🤣
1972年が皆様にめぐりめぐることを願う2023年。
もう半世紀も前なんだ。
自分に何が書けるか、何を求めているか、探している途中ですが、サポートいただいたお気持ちは、忘れずに活かしたいと思っています。