本能寺の変1582 第200話 16光秀の雌伏時代 5遊行上人 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第200話 16光秀の雌伏時代 5遊行上人
「遊行上人三十一祖京畿御修行記」
天正八年1580、一月。
三十一代遊行(ゆぎょう)上人同念が「南都御修行」を計画した。
以下は、それに関する記述である。
随行した者の手により書き残された。
朝廷より、遊行上人に説法の申し出があった。
朝廷から、参内して説法するようにとの申し出があった。
伝奏(=取次)は、勧修寺晴豊。
さ伝(て)、勧修寺、天奏(伝奏)として、
重ねて、御参内、
御結縁(けちえん)*1あるべきよし(由)、宣旨(せんじ)*2、
忝(かたじけな)く、有り難き事也。
旧秋、九月十三日、御参裏(参内)事も、
(上人が)誓願寺に御逗留の間、勅使ありし。
今又、当寺へ如此(かくのごとく)の御儀、
偏(ひとえ)に、本尊、引き合わせ申さるゝ哉(や)。
必ず、二月初め比(頃)、吉日を以って、金言*3次第とぞ。
正月廿三日、御行事成就し、七条へ御帰寺(京都金光寺*4)。
*1結縁 仏と縁を結ぶこと→説教・布教。
*2宣旨 天皇の命を伝える文書。
*3金言 仏の言葉。
*4金光寺 時宗の寺。
当時は、七条堀川北西にあった。
後に、秀吉によって現地に移される(下京区六条通河原町
西入本塩竃町)。
遊行上人は、「南都御修行」を計画した。
南都=奈良=興福寺。
奈良は、筒井順慶の領地。
遊行上人は、光秀に、順慶へ宛てた書状を依頼した。
光秀への使者は、称念寺の僧。
遊行上人は、坂本の光秀に使者(六寮)を派した。
筒井順慶は、光秀の与力。
光秀に、順慶へ宛てた一書を依頼した。
そのことについての文書である。
この中に、光秀の越前時代に関する箇所がいくつかある。
次の①~⑩に、それを示す。
参考にされたい。
同廿四日、坂本惟任日向守へ、六寮*遣はされ、
南都(奈良興福寺)御修行有りたくの之条、
筒井順慶へ、日向守一書、有るべきの旨、申し越さる。
*六寮 遊行上人の諸事を管掌する僧。
寮は、役人・役目等の意。
六つの寮に分けられた。
六寮は、称念寺の僧と思われる。
①光秀は、後に、惟任の姓を名乗る。
天正三年1575、信長から、惟任日向守の姓と官職を与えられる。
惟任方、もと明智十兵衛尉といひて、
②光秀は、牢人だった。
すなわち、「主無し」。
無禄である。
濃州土岐一家牢人たりしか、
③光秀は、朝倉義景を頼った。
但し、仕官した形跡は見当たらない。
越前朝倉義景を頼み申され、
④光秀は、十年ほど、長崎称念寺の門前に居住した。
ピタリと、この時期に合致する。
長崎称念寺門前に、十ヶ年居住故、
⑤光秀は、称念寺の僧と懇意だった。
光秀と六寮。
二人は、旧知の間柄。
光秀は、手厚くもてなした。
暫らく、坂本に留め置く。
念珠(ねんごろ)にて、
六寮、旧情、甚に付て、
坂本に、暫し、留め申さる。
光秀は、称念寺の僧を順慶に引き合わせた。
幸いにも、順慶が年始のため安土に出仕するという。
光秀は、六寮を順慶に引き合わせた。
「南都御修行」
順慶は、快諾した。
折節、大和筒井方、安土へ年始之出仕、
則、惟任、取次なれば、来儀、幸、
六寮、直に、行き合ひ、
遊行上人、南都御修行、日州、助言故、
順慶、別儀無く、御請、申されキ。
同晦日、(上人は)六条御影堂へ入御、
日中、行事以後、種々、取り成し、申し上られ候ひつる。
【 重史 025】(「遊行上人三十一祖京畿御修行記」)
⇒ 次へつづく 第201話 16光秀の雌伏時代 5遊行上人
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