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本能寺の変1582 第192話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第192話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 

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信長は、北ノ庄にいた。

信長は、越前の国割りを決めた。

 同日(九月二日)。
 信長は、北ノ庄で、越前の国割りを発表した。
 すなわち、論功行賞。

信長は、柴田勝家を越前に配置した。

信長は、柴田勝家を北陸道軍の総司令官に任じた。

 これが信長流。
 鋭い人物眼の持ち主なのである。
 家臣らの能力・人品・性格等をよく見ていた。
 柴田勝家は、織田家中、最高位の重臣の一人。
 佐久間信盛と並ぶ存在である。 
 だが、これは、手柄の大小にあらず。
 『信長公記』を読めば、わかること。
 どちらかと言えば、年功序列の色合いが強い。
 
  越前国、柴田修理(勝家)に八郡下され、
 
  大野郡の内、
  三分二、金森五郎(長)八(近)に仰せ付けられ、
  三分一、原彦次郎(政茂)に下され大野郡に在城侯なり。
 
  府中に足懸りを構へ、
  不破彦三(直光)・ 佐々蔵(成)介(政)・ 前田又左衛門(利家)、
  両三人に、二郡下され、在城なり。
 
  一、敦賀郡、武藤宗右衛門(舜秀)が在地なり。

越前での一番手柄は、明智光秀だった。

 衆目の一致するところである。
 柴田勝家ら重臣たちから、異論などあろうはずはない。
 『信長公記』、及び他の史料等々から、その様に思う。

次、信長は、西方に手をつけた。

 京都の西。
 「いずれ」
 その時は、来る。
 一、山陰道。
 一、山陽道。
 一、海の道。
 ならば、・・・・・。
 「先手を打つ」

信長は、光秀を山陰道軍の総司令官に任じた。

 信長の心底である。
 すなわち、構想。
 光秀は、それを察知していた。

 信長は、光秀に、褒美を与えた。
 それが、西方への備え。
 山陰道方面軍(仮称)の総司令官だった。
 これもまた、抜擢人事。

信長は、光秀に丹後・丹波への出陣を命じた。

 光秀は、勇躍した。
 すべては、己の実力次第。
 「国持大名」
 いよいよ、現実味を帯びて来た。  

  惟任日向守、直ちに丹後へ相働くべきの旨に侯。 
 
 出勢の目的は、斯くの如し。
 
  一、丹後国、一色殿へ参らせられ侯。
  一、丹波国、桑田郡・舟井郡、細川殿へ進(まいら)せらる。

                          (『信長公記』)
 
 「丹後」は、一色氏が守護の国。
 これを一色義道へ。
 
 同じく、「丹波」は、細川京兆家。
 これを細川信良へ。
 取り戻してやろう、というのである。 
 「細川殿」、とある。
 「殿」と敬称がついている。
 これは、細川藤孝ではない。
 この頃、藤孝は「長岡」の姓を名のっていた。

 意外なことである。
 信長は、保守的だった。
 「旧秩序の回復」
 これが、基本的な考え方だったのだろう。

信長は、楽観視していた。

光秀、同。

 おそらく、短期間で片づくと思っていたのだろう。
 「長篠効果」
 「越前効果」
 正に、昇龍の勢い。
 光秀の背景には、それがあった。
 
 信長の目は、西方を見ていた。
 「手柄を上げよ」
 光秀に、そう、言っている。
 
 信長には、目論みがあった。
 近江志賀郡、北山城。
 そして、丹後・丹波。
 これで、四ヶ国の軍勢が出来上がる。
 ならば、一万。
 否、一万五千。
 総大将は、惟任日向守光秀。
 これを以って、山陰道を西へ。
 信長の対毛利作戦が動き出した。

秀吉がこれを見ていた。

 この二年後。
 すなわち、天正五年1577、十月。
 秀吉は、播磨へ出陣する。

 これらについては、後述する。



 ⇒ 次へつづく 第193話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 


 




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