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脱学校的人間(新編集版)

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学校は、そこからほとんど全ての人間を社会へと送り込み、だいたい同じような人間として生きさせる。ゆえに学校化は実際に学校がある社会ばかりでなく、学校のない社会でこそより強くあらわれ…
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#哲学

脱学校的人間(新編集版)〈イントロダクション〉(「note創作大賞2022」)

脱学校的人間(新編集版)〈イントロダクション〉(「note創作大賞2022」)

 ―人間は、なぜ学校を必要とするのか?
  学校は、人間に何をさせようとしているのか?―

 学校は、そこからほとんど全ての人間を社会へと送り込み、だいたい同じような人間として生きさせる。ゆえに学校化は、実際に学校がある社会ばかりでなく、学校のない社会でこそより強くあらわれ、その欠乏は学校化への欲望をより強く引き起こす。そしてこの病は、その人間が死に至るまで終わらない。
 本稿では、世界中に蔓延す

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脱学校的人間(新編集版)〈1〉

脱学校的人間(新編集版)〈1〉

 人間にとって、「学校」とは一体何なのだろうか?
 たとえば、「社会が学校化している」などと言われる。しかし、もしそれがただ単に「学校化した社会とは要するに、あたかも学校の中にいるかのような社会のことだ」などというように考えられているものだとするならば、あまりに短絡的で間の抜けた認識だと言う他はない。あるいはもし「もともと社会はそうではなかったはずなのに、今ではまるで学校の中にいるかのようなものに

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脱学校的人間(新編集版)〈2〉

脱学校的人間(新編集版)〈2〉

 一般に人は、自らが社会で生きていくためには何らかの教育を受けることが必要であり、そのために学校はつくられたのだと考える。しかし、実際にはその全く逆なのである。
 まず、「人々が社会の中で自らの存在・生命・生活を維持していくためには、たとえば教育などの社会的なツールを必要としなければならない」といった社会的な必須条件を、人間全般に対して構造的に課せられている。そして、そのようにすることによってよう

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脱学校的人間(新編集版)〈4〉

脱学校的人間(新編集版)〈4〉

 学校化は、現実の生活の中においては全くといっていいほどそれと意識されるようなこともなく、一体何をもってそれが学校化なのであるかなどということが、具体的に目に見えて見出されることも、あるいは実際に手に取って確かめられるようなこともない。なぜなら、現実の生活そのものが全く学校化しているからだ。
 このようにして学校化という概念は、現実に生きられている生活の様式そのものに染み込み、そしてそのような生活

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脱学校的人間(新編集版)〈6〉

脱学校的人間(新編集版)〈6〉

 全ての人間が関わっていなければならない「学校的なもの」とは、まず第一に「学校という制度そのもの」であるのは言うまでもない。ゆえに、それに常に絶えず関係していなければならない全ての人間の現実生活そのものは、避け難く「制度的なもの」になっていく。
 そして人はその制度にもとづいて、自分自身に対しその制度の立て付けに見合ったさまざまな社会的な有用性を付け加えていく。その作業もまた、その制度の中で、その

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脱学校的人間(新編集版)〈7〉

脱学校的人間(新編集版)〈7〉

 人は学校によって、あるいは学校によってのみ「社会的に人間となる」ように教えられ、そのような「社会的な人間になる方法」を学ぶのだというように一般に人々には考えられていることだろう。そのように一般的に考えられている「社会的な人間のなりかた」というものとは、「人間であるため」に必要な技術・教養・慣習・規則・礼儀・道徳・秩序として、具体的でありながらなおかつ「一般的なもの」として、学校を通じて「全ての人

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脱学校的人間(新編集版)〈9〉

脱学校的人間(新編集版)〈9〉

 人々も時には自らの生活様式の基礎となっている社会的な諸制度に対して、何らかの不満を抱くようなことがあるだろう。しかしそれは、その制度が「制度的に機能している」前提があるからこその不満なのであり、また彼の不満は「自らの抱く不満が制度的に解消されることが期待できる」ということの裏返しであり、その限りで制度に何らかの「不満」を抱いている彼は、むしろその制度の「熱心な支持者」なのだと言えよう。
 そのよ

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脱学校的人間(新編集版)〈10〉

脱学校的人間(新編集版)〈10〉

 現に生きているその社会の中で、「それ以外の生きる仕方」というものが全く考えられず、それなしにはただ単に生きていくことすらできないというほどにまで制度化された生活の仕方=様式は、それ以外のやり方において人は一瞬たりとも生きることができないのだから、人々は実際にそのような生活の仕方・手段・方法のみを頼りにして現に生きている。それどころか、あたかもそれが人間にとって「生来的な生活様式」であるかのように

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脱学校的人間(新編集版)〈11〉

脱学校的人間(新編集版)〈11〉

 学校の、社会的に一元化された制度としての問題は、それに対する人々の「依存性の強さ」としてもあらわれてくる。
 内田樹は、学校が人々に必要とされている理由について「従来通りの努力と成果が見合う、適切なプロモーション・システムとして現に活用している人たちがまだいるということが、問題をいっそう複雑にして」(※1)いるのだと指摘している。
 「学校を現に活用している人たち」とは、端的に言うと「学校を現に

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脱学校的人間(新編集版)〈15〉

脱学校的人間(新編集版)〈15〉

 教育の「問題」とは、あらかじめその問いの解が設定された上で問題化されていると考えることができる。ゆえに一般に何らかの「教育問題」が考えられるとき、そのような問題を生じさせる「構造」が実は制度そのものによる作用であるということを、それこそ「構造的に見落とされている」あるいは「意図的に見逃されている」のである。だから、たとえいくらその問題点に即して現行の教育内容を見直し、より望ましい教育に作り換えた

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脱学校的人間(新編集版)〈16〉

脱学校的人間(新編集版)〈16〉

 全ての人間が何らかの形で経由することになっている学校の、その具体的な経由プロセスについて少し見ていくことにしよう。
 全ての人間が学校を経由する社会において、ある一定の年齢すなわち「学齢期」になると、子どもたちは「入学」という形式で、それまで生活していた身近な世界、たとえば家庭や近隣地域から「外」に出て、「学校という新しい世界の中」へと入っていく。その新しい世界の中で「子どもたちは家庭を離れ、新

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脱学校的人間(新編集版)〈17〉

脱学校的人間(新編集版)〈17〉

 人は学校という限定された空間で物事を学ぶものだと一般に考えられている。では、そもそもその「学ぶ」という行為とは、一体どういうことを言うのだろうか?
 「学ぶ」ということは、ある行動様式を主体的に再現することについて、その再現のためにとるべき行動の「様式・形式を学ぶ」ということである。たとえば算数を学ぶのであれば、人は単に数や計算式「だけ」を学ぶのではなく、それらを用いることによって実際になされる

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脱学校的人間(新編集版)〈18〉

脱学校的人間(新編集版)〈18〉

 人が実際に学ぶことにおいて、そこで学ばれた一つの行動様式を、たとえそのように「実際に学び取った行動様式」として規定するとしても、しかしそれが「常に新しい行動様式として学ばれる限り」は、実はそこでは「行動様式として規定されていないものも含めて同時に学ばれている」ことにもなる。言い換えると、人がある一つの行動様式を学ぶとき、それを「常に新しい行動様式として学ぶ」ことにおいて、「その行動様式を規定する

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脱学校的人間(新編集版)〈19〉

脱学校的人間(新編集版)〈19〉

 人は誰もが学校という限定された空間で学ぶものである、というように一般では考えられているわけなのだが、実際にその学校の中においてなされている教育の、その対象となっているのは「誰なのか?」といえば、それは言うまでもなく「子どもという限定された時間」を現に生きている、ある特定の人間たちである。
 子どもという者らは何よりもまずそのように、教育の対象として設定されることになる。子どもという者らはそのよう

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