脱学校的人間(新編集版)〈9〉
人々も時には自らの生活様式の基礎となっている社会的な諸制度に対して、何らかの不満を抱くようなことがあるだろう。しかしそれは、その制度が「制度的に機能している」前提があるからこその不満なのであり、また彼の不満は「自らの抱く不満が制度的に解消されることが期待できる」ということの裏返しであり、その限りで制度に何らかの「不満」を抱いている彼は、むしろその制度の「熱心な支持者」なのだと言えよう。
そのような彼にとってその制度はすでに、「押しつけられたもの」ではないだろう。むしろそれは自らが自発的・主体的に勝ち取ったものであるというふうにさえ受け止められていることだろう。もし仮にそれが、そもそもは押しつけられたものだったのだとしても、その押しつけを押し退けてなお、自分にとって必要であり有益であると彼は自ら言いうるほどとなっているだろう。また、「それを押しつけてきた者=上からの義務」ということを超えて、自らの享受できる正当な「権利」なのだと自ら言いうるほどに、彼は自分自身がその制度によって生きているのだということを、現実として強く実感しているのであるだろう。
この「実感」というものは、彼にとってはすなわちその制度に対する、揺るがぬ「確信」となっていることだろう。そして彼は、それが自分にとってそうであるというだけでなく、誰にとってもそうなのだということも、もはやいっさい疑わないだろう。「制度」というのはこのように、個々の人間の確信をも一般化することになるのである。
たとえば、「かつて学校に退屈させられた者でさえ、自分の子どもがある年齢に達すれば学校へ通わせるようになる、これは法律上の義務というよりむしろ、それが社会的な人間において必要なこととして認められている限り、自ら進んでそうするようになる」(※2)と山本哲士は言っている。ところでこのような「必要」というのは、「かつて学校に退屈させられた者自身としての必要」では、もはやすでにないはずだろう。なぜならおそらく彼はもはや自分自身のことを、「すでに社会的人間として一般に認められているものと自認している」はずなのだから。
また一方でそれは「彼の子ども自身の必要」には、おそらくまだなっていないと言えるだろう。そのような必要を自分自身として認識した上で、そして自ら進んで主体的に学校に通い始める「子ども」など、誰一人としていないのだろうから。
だから、親の方ではまずその必要性を、それが「一般的な社会的人間として必要である」というような、「一般的な必要性として、一般的に見出している」のだ。そして「一般的な必要性が、誰にでも適用される」ということが、かつては自分に適用されたのと同様に自分自身の子どもにもいずれ適用されるのだという、その一般性を確信しているからこそ、彼は自ら進んでその必要性を受け入れるのである。
いずれは自分の子どもたちも、自分自身がそうであったように学校から退屈を覚えさせられることになるはずなのだとしても、しかしそれは「その退屈も含めての必要性」なのだと、そのそれぞれ個別的な経験の、そしてそれに対して抱くはずの個々の現実的な感情までも、彼ら親=大人たちは「一般化」して自分自身や自分の子どもに適用する。親自身の退屈した経験や、それに対する自分自身の感情も、それ自体が一般的なものなのだから、誰もがそのような経験をし、誰もがそのような感情を抱くということを、彼らの誰もが信じて疑わないし、「そのような経験や感情以外の経験や感情」がもしかしたらありうるのではないかなどという可能性自体を、彼らの誰も知らないし、彼らの誰も思い至ることさえないのである。
「一般性」というものはそれこそ一般的に、そこから自分自身を除外することによっては見出すことのできないものである。だから「たとえ一般的に必要であるとしても、それは自分自身にとって必要のないものだ」などと考えることは、一般的に言って矛盾であり不条理である。ゆえに、その必要の一般性を否定する根拠が見出せない限り、あるいは「それとは異なる必要の一般性」なるものが新たに見出されるということでもない限り、「私は、現に一般的に必要とされているものを、私自身としても必要としなければならない」のだ。
そしてそのような「必要の一般性」の中にドップリと浸って生活している限りは、人はもはやその根拠を問う以前にその一般性自体を疑いえないし、ゆえにそのように疑いえないものはやはり確信せざるをえないのである。何しろ「それ以外というものがない」のだから。その「それ以外にない確信が、誰もがしていることを自分自身もまたそうするべきこととして、その人自身に自ら進んでそうさせる」のであり、それがその人自身を一般的な制度の中で、制度的に機能させているのである。
制度とはこのように、人々それぞれの確信を一般化し、人々それぞれの行動を制度的に機能化する。そして、この機能が人々の社会的機能として作り出されるのは、全ての人間が経由する学校を、その人自身が経由することによってでしかないだろう。このことは少なくとも一般的に、どこの誰においてもそれぞれそのように考えられているはずのことなのである。
〈つづく〉
◎引用・参照
※1 山本哲士「学校の幻想 教育の幻想」
◎『note創作大賞2022』に参加しています。
応募対象記事 「〈イントロダクション〉」 への応援、よろしくお願いします。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?