本能寺の変1582 第175話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第175話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前
『信長公記』の一行。
ところが、『信長公記』には、秀吉一人の名しかない。
「是非に及ばずの由にて、金ヶ崎の城には木下藤吉郎残しをかせられ」
太田牛一*1は、歴史の記録者。
織田方からは、秀吉のみ。
光秀は、義昭の家臣。
池田勝正は、外様。
、との意か、・・・・・。
それとも、・・・・・。
よくわからない。
この書が世に出たのは、慶長三年1598のこと*2。
すなわち、豊臣氏の時代になってから*3。
光秀・勝正はすでに亡く、遠い過去の人。
何れにしても、有るのは、この一行のみ。
*1【参照】太田牛一 大永七年1527生れ~慶長十八年1613没
*2【参照】2信長と「敦盛」 人間五十年 小 4
*3【参照】豊臣氏の時代
天正十年1582 六月 本能寺の変
〃 十三年1585 七月 秀吉、関白となる
〃 〃 九月 〃 豊臣姓を賜る
慶長三年1598 八月 〃 没
〃 五年1600 九月 関ヶ原の合戦
〃 八年1603 二月 徳川家康、征夷大将軍となる
〃 二十年1615 五月 大坂夏の陣、豊臣氏滅ぶ
太田牛一の配慮。
牛一は、本能寺の変後、しばらく経ってから、秀吉に招かれ、
その家臣になった。
となれば、秀吉が新たな主君となる。
おそらく、そのことがあるのだろう。
信長を顕彰しつつも、秀吉が関与する部分については、微かに、
配慮しているようにも見受けられる。
小瀬甫庵の脚色。
小瀬甫庵は、太田牛一より二、三十年ほど後の人である*。
牛一の『信長公記』を元本にして、「信長記(甫庵信長記)」を著した。
否、話に尾・鰭(ひれ)をつけた。
すなわち、創作、脚色。
牛一の僅か一行が、甫庵の手によって、斯くも長々しく異質な文章に
生まれ変わった。
さらば是れより引返し先ず浅井一党の逆徒等、
一人も洩らさず退治して後、当国をば静むべし。
さて金崎には誰をか残し置くべしと僉議区々(せんぎまちまち)
なりし所に、
木下藤吉郎秀吉、進み出で申されけるは、
某(それがし)残り申すべく候間、
御心安く引取らせ給へと心よげに申されければ、
汝(なんじ)残つて朝倉が勢を押へ候はんとや、
尤も切なる忠節浅からずとて、
是れより引取り退(の)かさせ給ふ、
秀吉も彼の猛勢を押へずんば、信長卿深入りし玉つる間、
安うは引取り給ひ難う覚ゆ。
(中略)
大名小名各々(おのおの)寄合うて、今度藤吉郎申請け残りけるこそ、
公の御身代(みがわり)と云ひ、一心の剛忠と云ひ、
大功此の上あるべしとも覚えず。
いざや暇乞乍(なが)ら引返し、力をも付けんとて、
弓鉄炮の者共撰び出し、三十人或は四十人、思ひ〃〃に残しければ、
程なく究竟(くっきょう)の射手共五百人計(ばか)りぞ揃ひける。
(中略)
彼の功を猜(ねた)んで、味方の弱るをも省みざりし事、
人目には見えねど世の習ひぞかし。
然るに斯く秀吉を助けて知卒を残し置きし事も、
大将信長卿、
人欲の私、聊(いささか)もなく万(よろ)づ正しきによつてなり。
誠に勇々敷(ゆゆしく)ぞ覚えたる。
去(さ)て木下、合力勢に力を得つ、朝倉が勢幾千万騎馳せ来るとも、
手痛き合戦して勝負を決せんとぞ勇みける。
(「甫庵信長記」)
「甫庵信長記」の初刊は、慶長十六年1611前後のことされる。
余程、評判が良かったのだろう。
その後、幾度も刊行された。
*【参照】小瀬甫庵 永禄七年1564生れ~寛永十七年1640没
「当代記」の模倣。
『当代記』は、「甫庵信長記」よりも、もう少し後。
すなわち、寛永年間(1624~1644)の成立と云う。
長篠の合戦で名を馳せた奥平信昌の一子、松平忠明による編纂とされ
るが定かではない。
おそらく、それに倣ったのだろう。
同様の内容である。
信長曰く、先ず、彼(浅井長政)を退治すべしとて、引き返され、
金崎に誰をか残さるべしとの儀也、
ここに、木下藤吉郎、吾を残さるべきの由、言上、
信長、快気也(機嫌がいい)、
各(おのおの)、美談となさざるなかれ、
然る間、一手一手(諸将)より、弓・鉄炮、或いは三十・或いは五十、
合力として、付け残さる、
(「当代記」)
歴史の捏造。
太閤殿下の出世譚、「金ヶ崎の退き口」。
『信長公記』を本流とすれば、「甫庵信長記」は、その小さな支流の
一つにすぎなかったはず。
だが、後者の方が、広く世に拡散することになる。
すなわち、支流の方が勢いを増し、本流の如き様相を示すようになっ
てしまった。
そして、寛永二年1625。
甫庵は、さらに、豊臣秀吉の一代記「甫庵太閤記」を世に送り出す。
こちらもまた、より多くの人々に受け入れられた。
最早、フィクションの世界。
以後、これらを底本とした秀吉の伝記本が数多く書かれることになる。
拡散、拡散、拡散。
現代の我々は、その延長線上にいる。
これらは、史実にあらず。
真に受けるべからず。
重々、留意すべし。
、である。
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