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本能寺の変1582 第139話 15信長の台頭 8三好の衰退 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第139話 15信長の台頭 8三好の衰退 

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衰退の予兆。

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 ここで、話が少し前後する。
 「予兆」とでも、言うべきなのだろうか。
 三好の栄華に翳りが見えた。  

十河一存の死。

 永禄四年、四月のこと。
 三好四兄弟の末弟、十河一存、死去。
 原因は、よくわからない。

  十川一存逝去の事

  【参照】15信長の台頭 2尾張統一 119    
      十河一存
      岸和田城主。
      子に、三好義継がいる。

一存と松永、其の中、あしく。

 ここに、一つの逸話が残っている。
 当時、松永久秀の関与が噂された。
 常日頃から、二人の仲が良くなかったらしい。
 急死だったという。

  永禄三年十二月、
  十川民部大輔一存と松永、其の中(仲)、あし(悪)く、
  常に、不快を現しける、

  其の比(永禄四年四月頃)、
  十川殿、瘡(そう)を煩ひ、有馬温泉え、湯治ありける、
  松永、意見申しけるは、
  有馬温泉権現は、あしけ(芦毛)馬を御とか(咎)めある神なり、
  此れ、御馬無用、と申す。

  然れども、十川殿、松永が申すことを用ひ給はず、
  松永また、十川殿の宣(のたま)ふ事を背(そむ)ける事なれば、
  十川殿、是れを聞きたまはず、
  葦(芦)毛馬に乗り、湯治して、登山ありけるが、

  案の如く、落馬ありて、忽(たちま)ち、死去ありけるこそ、
  不思議なれ、
  運命、盡(尽)くとは、言ひながら、あへ(敢え)なき事どもなり、
                         (「足利季世記」)

 

 ⇒ 次へつづく 第140話 15信長の台頭 8三好の衰退 


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