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本能寺の変1582 第136話 15信長の台頭 6三好の絶頂 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第136話 15信長の台頭 6三好の絶頂 

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三好長慶と畠山氏が対立した。

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 畠山氏は、河内の守護。
 当主は、高政。
 高屋城を居城とす。

 二年前、永禄元年1558のこと。
 畠山氏に、内紛があった。
 高政は、安見宗房の専横を嫌って、紀伊へ出奔した。

 翌、二年。
 長慶は、宗房を飯盛山へ追い払い、高政を高屋城に迎え入れた。
 高政にとって、長慶は恩ある人である。

 そして、この年。
 永禄三年1560。
 五月。
 ところが、その高政が、宗房と、勝手に和睦してしまった。
 この事が、発端となった。 

  同月、河内国、畠山高政は、守護代安見美作守・遊佐等を免許ありて、
  高屋え入れらるゝ、

  是は、湯川直光、田舎武士にて、京家の作法、無骨にして、
  国侍上下、安見・遊佐をしたひ(慕い)ければ、
  高政、此の分ならば、国衆に背かれ、悪(あ)しからんと思ひ、
  湯川直光には、名字をゆるし、畠山宮内少輔の家を継がしめ、
  宮内少輔となされ、紀伊国え還えし遣はし、
  安見を呼び出し、河内の郡代に、補せらるゝ、

 長慶は、これに激怒した。

  三好長慶は、これを聞ひて、大いに忿(いか)り、
  畠山殿、此の条、我らに相談なく、
  不忠の安見・遊佐を還えさるゝ事、心得難し、
  其の儀ならば、高政をも、責め落とせとて、

長慶は、四国勢を呼び寄せた。

 同、六月。
 
三好義賢の軍勢が、尼崎に到着。

  舎弟、実休に相議し、四国勢を催されければ、
  実休、即ち、打ち立ち、
  六月廿四日に、尼崎に着陣す、

  長慶も、松永(久秀)も、尼崎にて、軍(いくさ)評定して、
  同廿八日、芥川城え皈(帰)り、

  【参照】15信長の台頭 2尾張統一 119   

長慶は、河内へ出陣した。

 三好長慶は、大永二年1522の生れ。
 この年、三十九歳。
 武田信玄の一つ下。
 こちらも男盛りである。

 四国勢は、河内に展開した。
 長慶は、その北、守口に本陣を置き、飯盛山城を睨む。  

  同(六月)廿九日、打ち立ち、
  四国衆は、河内の十七ヶ所え陣取り、
  長慶は、守口に陣を取る、

  【参照】15信長の台頭 5武田信玄と天沢和尚 135    

長慶は、畠山氏を攻めた。

 同年、七月。
 戦いが始まった。
 圧倒的な戦力差。
 畠山勢は、歯が立たない。

  さすがに、難儀に思ひける、
  八ヶ所の湖水、当年の渇水にて、潟となる、
  七月三日、畠山衆、玉櫛*と云ふところにて合戦し、
  三好方、打ち勝ち、畠山衆、卅余人、討死す、

  四国衆は、若井(若江)と云ふ処え責め寄せ、
  同七日、太田・若林(八尾市)と云ふ処え陣替し、
  同十九日、藤井寺え陣取り、次第々々に、責め寄せければ、
  同廿二日、飯盛城より、安見美作守父子、大窪(八尾市)に取り出でて、
  合戦して、安見、打ち負け、引き退(の)く、

   *玉櫛   東大阪市玉串町?  

松永久秀は、大和を攻めた。

 筒井氏は、畠山氏に与した。
 当主は、順慶。
 天文十八年1549の生れ。
 翌十九年、父、順昭が若くして没したため、家督を継ぐ。
 叔父、順政がこれを後見した。

 この年、十二歳。  

  同七月廿四日、大和国、井土の城*(井土若狭守)、
  畠山方籠りたるを、
  松永霜台、大将にて、数日、責められける、

  筒井順照(誤り)、後詰の為に、出張して、松永衆と合戦し、
  散々に打ち負け、筒井方、廿四人まで討死す、
                         (「足利季世記」)

    *井土の城 井戸城(奈良県天理市石上町)。
          城主は、井戸良弘。
          妻は、順昭の娘(順慶の姉)。 



 ⇒ 次へつづく 第137話 15信長の台頭 6三好の絶頂 


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