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本能寺の変1582 第135話 15信長の台頭 5武田信玄と天沢和尚 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第135話 15信長の台頭 5武田信玄と天沢和尚 

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天沢は、信長の鷹狩について述べた。

 これ、すなわち、戦場。

信長は、用意周到である。

 先ずは、物見。

信長は、実に、用心深い。

 信玄は、聞き入った。  

  鷹野の時は、廿人、鳥見の衆と申す事申し付けられ、
  二里、三里御先へ罷り参り侯て、
  あそこの村、爰(ここ)の在所に、鴈あり、鶴ありと、
  一人鳥に付げ置き、一人は注進申す事に侯。

 信長の身辺に控える者たち。
 弓、三人。
 槍、三人。
 合わせて、六人。
 この中に、太田牛一(又介)の姿も見える。

  又、六人衆と云ふ事定められ、
  弓、三張の人数、浅野又右衛門・太田又介・堀田孫七、以上。
  鎗、三本人数、伊藤清蔵・城戸小左衛門・堀田左内、以上
  此の衆は、御手まはりに、これに在るなり。

信玄は、戦場をイメージした。

 これが、信長の戦。  

信長は、勝機を逃がさない。

 信長は、様子を窺いつつ。
 気づかれぬよう、そっと、獲物に近づき。 

  一、馬乗一人、山口太郎兵衛と申す者、
    わら(藁)をあぶ(虻)付きに仕り侯て、
    鳥のまはりをそろりそろりと乗りまはし、
    次第々々に近より、

    信長は、御鷹居(す)ゑ給ひ、
    鳥の見付け侯はぬ様に、馬の影にひつ付いて、
    ちかよ(近寄)り侯ひし時、
    はしり出で、御鷹を出ださる。

それ故、信長は、戦いに勝った。

 仕留めるのである。

    向待ちと云ふ事を定め、是れには鍬をもたせ、
    農人の様にまなび(似せて)、そら田をうたせ、
    御鷹(=鷹が獲物の鳥に)取付き侯て、くみ合ひ侯を、
    向待ちの者、鳥をおさへ申し侯。

信長は、戦巧者である。

 信長は、狙った獲物を逃がさない。
 なかなかの、腕前である。
 これ、すなわち、戦巧者。

    信長は、達者侯間、度々おさへられ侯と承り及び侯。

この時、信玄、四十歳。

 信玄は、大永元年(1521)の生れ。
 この年、永禄三年(1560)時の年齢である。
 気力・知力・体力がともに充実。
 その上、経験豊富。
 正に、男盛りだった。

信玄は、信長の十三歳年上。

 信長は、天文三年1534の生れ。
 この年、二十七歳。
 「桶狭間」
 勇名が天下に鳴り響いた。
 全国区、である。 

勝頼は、信長の十二歳年下。

 天文十五年1546の生れ。
 この年、十五歳。
 信玄の四男。
 母は、側室、諏訪頼重の娘。

信玄は、感心した。

 信長、勝利の理由。
 「これで、わかった」
 ようやく、腑に落ちた様子である。
 「油断ならぬ相手」
 そう、思っただろう。

  信長の武者をしられ侯事、道理にて侯よとぞ、
  ふしをがみ(伏し拝み)たる躰(てい)にて侯間、

信玄は、信長のことをもっと知りたかった。

 天沢に、再訪を命じたという。 
  
  御いとまをと、申し侯へば、
  のぼ(上)りにかならずと、仰せられ、
  罷り立ち侯ひつると、天沢、御雑談侯ひつる。
                          (『信長公記』)

 

 ⇒ 次へつづく 第136話 15信長の台頭 6三好の絶頂 


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