本能寺の変1582 第134話 15信長の台頭 5武田信玄と天沢和尚 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第134話 15信長の台頭 5武田信玄と天沢和尚
信玄は、信長の「数寄」について尋ねた。
「興味津々」、である。
信玄は、再び、問うた。
今度は、「数寄」について。
すなわち、信長の好むもの。
特に、風流・風雅の道に関して。
其の他、数寄(すき)は何かある、と御尋ね候。
信長は、舞と小歌を好んだ。
幸若舞と俗謡である。
舞いとこうた(小歌)、数寄にて候、と申し上げ候へば、
これが、信長の生き様である。
信長は、「敦盛」を好んだ。
友閑という人物が、これを教えていたという。
松井友閑のことか。
幸若大夫、来(き)候か、と仰せられ候間、
清洲の町人に夕閑(ゆうかん)と申す者、細々(=再々)召しよせ、
ま(舞)はせられ候。
特に、この一節が気に入っていた。
敦盛を、一番より外は、御舞い候はず候。
人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。
是れを口付けて、御舞ひ候。
【参照】2信長と「敦盛」 人間五十年 4
【参照】15信長の台頭 3桶狭間 126
信長は、世俗に通じていた。
信玄の、知らぬ世界である。
又、小うたを数寄て、うたはせられ候と申し候へば、
いな物をすかれ候と信玄仰せられ候。
それは、いか様の歌ぞと仰せられ候。
これが、信長の死生観である。
人は、必ず、死ぬ。
ならば、為すべし。
後々までの語り草になるだろう。
死のふは一定、
しのび草には何をしよぞ、
一定かたりをこすよの、
是れにて、御座候と申し候へば、
ちと、其のまねをせられ候へと、信玄、仰せられ候。
沙門(さもん=出家の身)の儀に候へば、申したる事も御座なく候間、
罷り成りがたしと、申し上げ候へば、
是非々々と、仰せられ候間、
まねを仕り候。
(『信長公記』)
一期は夢よ、ただ狂え。
当時の世相を反映する小歌を「閑吟集」*から二つ紹介する。
「閑吟集」は、室町時代後期(永正十五年1518)に成立した小歌選集。
編者は、不明。
大衆の声である。
何とも、切ない時代だった。
世間はちろり*に過ぐる、ちろり、ちろり、
何せうぞ、くすんで*、一期は夢よ、ただ狂へ、
*ちろり アッという間に。ちらり。
*くすんで 真面目であること。
⇒ 次へつづく 第135話 15信長の台頭 5武田信玄と天沢和尚
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