本能寺の変1582 第133話 15信長の台頭 5武田信玄と天沢和尚 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第133話 15信長の台頭 5武田信玄と天沢和尚
「噂」は、瞬く間に周辺諸国に広まった。
「去る、五月十九日」
「尾張にて、合戦あり」
「織田信長」
「駿河の太守、今川義元を討ち取ったり」
信玄は、信長を強く意識していた。
永禄三年1560、夏。
信玄は、信濃の大半を併呑していた。
「力こそ正義」
残すは、北信のみ。
「領土拡大」
戦国乱世を生き抜くには、それしかない。
そう、考えていたのだろう。
信長と、同じである。
甲斐も、信濃も、山国である。
海がない。
北に、越後。
東に、上野。
南に、駿河・遠江・三河。
そして、西に美濃・尾張。
信長に対する意識が、この時を境に、大きく変わった。
天沢長老物がたりの事。
おそらく、この頃のことだろう。
信玄は、たまたま、甲斐を訪れ、帰国しようとしていた尾張の僧、
天沢(てんたく)に対して、信長に関することを、色々と尋ねた。
さる程に、天沢と申し候て、天台宗の能化(のうげ=坊主)あり。
一切経(=全経典)を二篇読みたる人にて候。
或る時、関東下りの折節、
甲斐国にて、武田信玄に一礼申し候て、罷り通り候へと、
奉行人申すに付いて、御礼申し候のところ、
上がたは、いずくぞと、先ず国を御尋ねにあり候。
尾張国の者と申し上げ候。
郡(こおり)を御尋ね候。
上総介殿居城清洲より、五十町(≒5km)東、春日原のはずれ、
味鏡(あじま)*と云う村、天永寺と申す寺中に居住の由、申し候。
*味鏡 名古屋市北区味鋺(あじま)
信玄は、信長の「形儀」について尋ねた。
そして、いよいよ、本題へ。
先ずは、日々の行い、行状について。
信玄は、知りたかった。
「織田信長」
一体、如何なる男なのか。
信長の形儀(ぎょうぎ)を、ありのまゝ残らず物語り候へ
と仰せられ候間、
申し上げ候。
これが、信長の日常である。
天沢は、答えた。
全部で、五つあった。
一、馬。
朝毎(ごと)に、馬をのられ候。
一、鉄炮。
又、鉄炮御稽古、師匠は、橋本一巴(いっぱ)にて候。
一、弓。
市川大介をめしよせ、弓、御稽古。
一、兵法。
不断は、平田三位と申すもの近付けをかせられ、是れも兵法にて候。
一、鷹。
しげ々々、御鷹野に成られ候と申し候。
(『信長公記』)
⇒ 次へつづく 第134話 15信長の台頭 5武田信玄と天沢和尚
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