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本能寺の変1582 第132話 15信長の台頭 4光秀と長宗我部元親 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第132話 15信長の台頭 4光秀と長宗我部元親 

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土佐、長宗我部国親が亡くなった。

 同年(永禄三年)、六月。
 元親の父、国親。
 病のため死去。
 土佐統一の戦いは、すでに、始まっていた。    

  扨(さて)、元親卿父、覚世(かくせい)の代より、
  弓矢、取り起こされ(戦いが起きた)、
  先ず、東は、和食(わじき)*に限り(まで)、取り出で(攻めとり)、
  西、一宮*に限り、
  南、種﨑*、
  但し、御畳瀬(みませ)、渡り越し、本山領分、永(長)浜の城を取る、
  其の年、覚世、病死せしむ、

    *和食  高知県安芸郡芸西村和食
    *一宮   同 高知市一宮
    *長浜   同  〃 長浜
    *御畳瀬  同  〃 御畳瀬

元親、家督を継ぐ。

 元親、この時、二十二歳。
 家督とともに、父の遺志を引き継いだ。

 以下、国親の遺言である。

  覚世、元親卿へ遺言す、

  我、本山之家に対し、年来、遺恨の子細これあるにより、
  本山と弓矢取り起こすといえども、成就せず、
  而して、相果つること、無念至極なり、

  我以後、此の弓矢、全く無事あるべからず
  (戦いが終わることはないだろう)、
  我、軍神となり守るべし、

  と、宣(の)べ置かる、
  永禄三年六月十五日、遠行、
                           (「元親記」)

   【参照】8光秀の苦悩 6守るべき者 50    
   【参照】12光秀と斎藤道三 2光秀と長宗我部元親 82 

元親の、土佐統一は、ここから始まった。

 永禄三年1560~天正三年1575。

そして、四国統一へと進展する。

 最大の敵は、阿波の三好氏。
 信長の敵も、これに同じ。
 両者の利害が一致した。 

その過程で、光秀との絆が生れる。

 これが、天正六年(1578)のこと。
 以来、同十年(1582)までつづく。

 【参照】8光秀の苦悩 6守るべき者 50    
 【参照】12光秀と斎藤道三 2光秀と長宗我部元親 82 

元親は、本能寺の変に関わる重要人物の一人である。

 光秀の行動に、大きな影響を及ぼした。
 注目されたい。

以上、これらについては後述する。

この元親を、二人の弟が支えた。

 長宗我部三兄弟。
 長男、元親。
 次男、吉良親貞。
 三男、香宗我部親泰。

  次に、元親卿、兄弟三人、次男吉良左京進親貞、三男香宗我部親泰、
  親貞は、海より西の軍代、親泰は東表の軍代を給う、

  扨(さて)、元親卿、
  廿二歳より、一分の弓矢取り来たり給ふとぞ
  (一人前の武士になられたということである)、
                           (「元親記」)

当時、土佐は、八つの勢力に分裂していた。

 最大勢力は、土佐一条氏。
 突出していた。
 他は、大体、どんぐりの背比べ。
 長宗我部氏が最小だった。

  土佐の国七郡、大名七人、御所一人、
  と申すは、
  一條殿一万七千貫、
  津野五千、大比良四千貫、吉良五千貫、
  本山五千貫、安喜(芸)五千貫、香宗我部四千貫、
  長宗我部三千貫、
  以上八人の内、一條殿は各別、
  残りて七人守護、と申す、

  このほか、中身小身の国人・侍、または鎌倉より下り人、
  件の如し、
                           (「長元記」)

    【参照】12光秀と斎藤道三 2光秀と長宗我部元親 82 


 ⇒ 次へつづく 第133話 15信長の台頭 5武田信玄と天沢和尚 


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