本能寺の変1582 重要 ◎第28話 信長の性格 執念深い 美濃平定 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
重要 ◎第28話 信長の性格 執念深い 美濃平定
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*以下は、第28話から重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。
◎永禄十年1567、夏。
◎斎藤氏は、内側から崩れた。
同年、八月。
美濃三人衆が寝返った。
一、八月朔日、美濃三人衆、
稲葉伊予守(良通)・氏家卜全(直元)・安東伊賀守(安藤守就)、
申し合せ侯て、
信長公へ御身方に参ずべく侯間、人質を御請取り侯へと、
申し越し侯。
◎信長は、この時を待っていた。
「出陣」
先ずは、瑞龍寺山へ上り様子を窺った。
稲葉山城は、目と鼻の先。
山つづきで、北東へ約半里(2km)。
そして、城下に放火。
城を丸裸にした。
然る間、村井民部丞・島田所之助、人質を請取りに、
西美濃へさし遣はされ、
未だ人質も参らず侯に、俄かに御人数出だされ、
井口山のつゞき瑞龍寺山へ懸け上られ侯。
是れは如何に、敵か味方かと申すところに、
早、町に火をかけ、即時に生(はだ)か城になされ侯。
其の日、以外に風吹き侯。
◎信長は、稲葉山を包囲した。
兵糧攻めの姿勢を見せた。
龍興は、孤立無援。
後詰は、ない。
翌日、御普請くばり(分担)仰せ付けられ、四方鹿垣結ひまはし、
取り籠(こ)めをかせられ侯。
美濃三人衆は、信長のやり方に驚いた。
左侯ところへ、美濃三人衆も参り、肝を消し、御礼申し上げられ侯。
信長は、何事もケ様に物軽に御沙汰をなされ侯なり。
【重史096】(『信長公記』)
◎斎藤龍興は、伊勢長島へ逃げた。
龍興は、城を捨てた。
舟で、長良川を下り、落ちて行く。
一、八月十五日、色々降参侯て、
飛騨川のつゞきにて侯間、舟にて川内長島へ、
龍興、退散。
◎信長は、稲葉山城を無傷で手に入れた。
攻略、成功。
兵は、損耗させず。
◎信長は、美濃を平定した。
今は亡き父、織田信秀の悲願。
「美濃の平定」
ここに、成る。
程なくして、小牧山から稲葉山に居城を移した。
さて、美濃国一篇に仰せ付けられ、
尾張国小真木山より、濃州稲葉山へ御越しなり。
◎信長は、井口の名を岐阜と改めた。
これは、翌年のこと。
井口と申すを、今度改めて、岐阜と名付けさせられ、明くる年の事。
【重史097】(『信長公記』)
◎斯くして、阻害要因は無くなった。
都への通路を確保。
いよいよ、である。
◎信長は、執念深い。
天文十八年1549、
信長の父、信秀、斎藤道三と和睦。
信長は、道三の娘を妻に迎えた。
同二十一年1552、信秀、没す。
その四年後。
弘治二年1556、舅、道三、死す。
その跡を継いだのが、斎藤義龍。
斯くして、信長と義龍の争いが始まった。
ところが、その最中、永禄四年1561、義龍が急死。
その子、龍興の代となる。
そして、永禄十年1567の今。
信長は、ついに、美濃を乗っ取った。
父、信秀の死から、15年後。
舅、道三の死から、11年後。
この執念や、恐るべし。