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本能寺の変1582 第185話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第185話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 

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府中の町は、死がい計りにて、一円あき所なく候。

 同十七日。 
 信長は、府中龍門寺にいた。
 この日の朝、村井貞勝から書状が届いた。
 信長は、それに返書を送った。
 これが、以下の「泉文書」である(①~④)。
 信長の真意がよくわかる。 
 『信長公記』の記述を裏付けるもの。
 併せて、お読みいただきたい。
 
①貞勝は、京にいた。
 使者の出発が十五日。
 越前府中まで、二日を要した。
 
    尚々、態(わざ)と飛脚を上すべく候ところ、申し越し候間、
    幸いの事に候条、此の如く候、

 
  十五日の書状、今日十七朝、到来、披見候、
 
②信長は、先ず十四日・十五日の様子を述べた。
 
  一、此の表の事、去る十四日敦賀に至り着陣せしめ、
    則ち、十五日、木の目(芽)口、幷(なら)びに、浜手其の外方々へ
    人数をく(配)はり、
    先ず、浜の方にこれ有る篠尾・杉津両城を攻め崩し、
    数多(あまた)、くひ(首)をきり、気を散じ候、
 
③次ぎ、十六日のこと。
 
  一、昨日十六、我々、木の目口出馬候に付きて、

信長は、光秀に、この作戦を命じたと言っている。

 すなわち、光秀が「主」。
 「其の調儀、申し付け候」
 一番手である。 
 
    維(惟)任日向守は、浜手より、府中の町へ罷り越し、
    相待つべく候、
    木の目、追ひ崩し候はゞ、に(逃)け還(かえ)るべく候の間、
    其の調儀、申し付け候ひき、

 難儀な役目であった。
 「一網打尽」
 追い込む側と、待ち受ける側。
 「呼吸」が合わねば、取り逃がす。
 斯くなれば、元の木阿弥。
 長期戦になるは、必定。
 その間に、何が起こるかわからない。
 「惟任ならば」
 信長は、そう思ったに違いない。

秀吉は、その二番手であった。

 そして、もう一人。
 それが、羽柴秀吉。
 となれば、こちらは、二番手。

 しかし、『信長公記』には、
 「惟任日向・羽柴筑前両人として」、と書かれている。
 すなわち、同位=同レベルとして。
 
これには、微かに、秀吉に対する、太田牛一の忖度が感じられる。
 出来上がった時期*を考えれば、おそらく、そうなのであろう。
 
 *【参照】2信長と「敦盛」 人間五十年  小    4
    太田牛一と『信長公記』について。
    慶長三年(1598)のことであった。

信長の采配は、見事であった。

 信長は、鋭い人物眼の持ち主。
 光秀と秀吉。
 二人をよく見ていた。
 正に、絶妙の組み合わせ。 
 鉄壁の布陣。
 さすが、である。 
 二人は、逃げ落ちて来る一揆勢を待ち構えた。
 
    羽柴筑前守(秀吉)も、去年、木の目の城取られ候遺恨に、
    維(惟)任と相談(かた)らひ、府中へ十五日夜中に相越し候て、
    二手につくり、相待ち候ところ、

 信長の作戦は、ものの見事に的中した。
 
    案の如く、五百・三百ずつに(逃)けかゝり候を、

光秀は、大量殺戮を厭わぬ人物だった。

 これこそ、光秀の真の姿。 
 秀吉も、また、同じである。
 
    府中町にて、千五百ほどく(首)ひをきり、
    其の外、近辺にて、都合二千余きり候、
 
    大将分の者、西光寺・下間和泉(頼総)・若林、討ち取り候、
    若林、仮名書くべく候へども、それの名にま(紛)きれ候て、
    如何の間、書かず候(漢字で書いた)、
    定めて、くせ(曲者)ものにて候間、隠れ有るべからず候、

 信長は、わずか二日で越前を平定した。
 
    即ち、両日の間に一国平均に申し付け候、 

これが、信長の見た光景である。 

 信長が府中に入った時、見た景色。
 有名な一節である。
 自慢しているようにも見える。
 「見せ度く候」
 殺伐とした時代だった。
 
    府中の町は、死かい(骸)計りにて、一円あき所なく候、    
    見せ度く候、

斯くして、掃討戦が始まった。

 戦いは、つづく。
 織田の諸将は、各所へ散開した。
 
  今日は、山々谷々を尋ね捜し打ち果すべく候、

信長は、越前の戦況を大いに喧伝した。

 村井貞勝は、京都における広報担当である。

④信長は、貞勝に、これらの事を荒木村重と三好康長に伝えるよう命じた。
 「よろこばせ候べく候」、とある。 
 
  一、越前、此の如く即時に存分に属し、隙を明け候間、
    何口も本意のごとく申し付くべく候間、心(うら)安かるべく候、

    此れらの趣、荒木信濃守・三好山城守以下に申し聞かせ、
    よろこばせ候べく候、
    猶、追々、申し聞かすべく候、
    謹言、
        (天正三年)
         八月十七日           信長(朱印)
          村井長門守殿             
                (「泉文書」「織田信長文書の研究」)

 これによれば、荒木村重は越前にいない。
 摂津に残っていたことになる。
 これ程の大事。
 信長が間違うわけがない。
 『信長公記』には、村重の名がある(八月十五日の部分)。
 これは、太田牛一の誤りだろう。
 おそらく、村重は大坂への押さえとして残された。
 越前攻めには、参陣しなかったのではないか。

 


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