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脱学校的人間(新編集版)

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学校は、そこからほとんど全ての人間を社会へと送り込み、だいたい同じような人間として生きさせる。ゆえに学校化は実際に学校がある社会ばかりでなく、学校のない社会でこそより強くあらわれ…
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#考察

脱学校的人間(新編集版)〈8〉

脱学校的人間(新編集版)〈8〉

 山本哲士は、学校を正当化する考えというものは、その使用者にとってそれが自らの必要や利益に奉仕していることを信じていなければ、制度あるいはシステムとして維持されることができない、ゆえに単なる上からの押しつけではなく、使用者自らの必要として自らに押しつけていく、その自発性にこそ制度的な特徴があるのだ、と分析する(※1)。
 一般に物事の「正当化」というものは、その対象となる事柄の正当性が失われうるこ

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脱学校的人間(新編集版)〈9〉

脱学校的人間(新編集版)〈9〉

 人々も時には自らの生活様式の基礎となっている社会的な諸制度に対して、何らかの不満を抱くようなことがあるだろう。しかしそれは、その制度が「制度的に機能している」前提があるからこその不満なのであり、また彼の不満は「自らの抱く不満が制度的に解消されることが期待できる」ということの裏返しであり、その限りで制度に何らかの「不満」を抱いている彼は、むしろその制度の「熱心な支持者」なのだと言えよう。
 そのよ

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脱学校的人間(新編集版)〈10〉

脱学校的人間(新編集版)〈10〉

 現に生きているその社会の中で、「それ以外の生きる仕方」というものが全く考えられず、それなしにはただ単に生きていくことすらできないというほどにまで制度化された生活の仕方=様式は、それ以外のやり方において人は一瞬たりとも生きることができないのだから、人々は実際にそのような生活の仕方・手段・方法のみを頼りにして現に生きている。それどころか、あたかもそれが人間にとって「生来的な生活様式」であるかのように

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脱学校的人間(新編集版)〈11〉

脱学校的人間(新編集版)〈11〉

 学校の、社会的に一元化された制度としての問題は、それに対する人々の「依存性の強さ」としてもあらわれてくる。
 内田樹は、学校が人々に必要とされている理由について「従来通りの努力と成果が見合う、適切なプロモーション・システムとして現に活用している人たちがまだいるということが、問題をいっそう複雑にして」(※1)いるのだと指摘している。
 「学校を現に活用している人たち」とは、端的に言うと「学校を現に

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脱学校的人間(新編集版)〈12〉

脱学校的人間(新編集版)〈12〉

 それなしにはもはや生きていくことさえできないというまでに至る、ほとんど全ての人たちにおける制度的生活への強い依存とは、たとえば「一つの病の様相」だと言えるだろうか?
 然り。それはたしかにそうなのだと言えるだろう。
 であれば、それは「異常なこと」だと言えるものなのだろうか?
 否。それはむしろそうではないだろう。
 制度というものは、言うまでもなく「社会の正常化」を志向している。ゆえに、それに

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脱学校的人間(新編集版)〈13〉

脱学校的人間(新編集版)〈13〉

 全ての人間が、何らかの形で学校を経由して社会に送り出されてくる。逆に言えばそのように学校を経由した者のみが、人間として社会的にその存在を認められるところとなる。その認証プロセスを担うのが言うまでもなく、社会的制度・機能としての学校である。ゆえに学校は社会的であり、社会は学校的なのだ。
 まずはそこで、まさしくその名において象徴される「学校」の教育的な機能について、それがいかに人間の生活全体にわた

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脱学校的人間(新編集版)〈14〉

脱学校的人間(新編集版)〈14〉

 世間一般においては、「教育問題」なるものが時折沸き起こることがある。そのような「問題」が取り沙汰されるようなときにはたいがいにして、「今の教育の一体どの部分がどのように問題なのか?」とか、「なぜそれがうまく機能していないのか?」とか、「いかにすれば教育はうまく機能するのか?」とか、「よい教育とはいかなるものか?」とかいったように、もっぱら教育の「いかに・どうすれば」という部分が喧しく議論されてい

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脱学校的人間(新編集版)〈15〉

脱学校的人間(新編集版)〈15〉

 教育の「問題」とは、あらかじめその問いの解が設定された上で問題化されていると考えることができる。ゆえに一般に何らかの「教育問題」が考えられるとき、そのような問題を生じさせる「構造」が実は制度そのものによる作用であるということを、それこそ「構造的に見落とされている」あるいは「意図的に見逃されている」のである。だから、たとえいくらその問題点に即して現行の教育内容を見直し、より望ましい教育に作り換えた

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脱学校的人間(新編集版)〈16〉

脱学校的人間(新編集版)〈16〉

 全ての人間が何らかの形で経由することになっている学校の、その具体的な経由プロセスについて少し見ていくことにしよう。
 全ての人間が学校を経由する社会において、ある一定の年齢すなわち「学齢期」になると、子どもたちは「入学」という形式で、それまで生活していた身近な世界、たとえば家庭や近隣地域から「外」に出て、「学校という新しい世界の中」へと入っていく。その新しい世界の中で「子どもたちは家庭を離れ、新

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脱学校的人間(新編集版)〈17〉

脱学校的人間(新編集版)〈17〉

 人は学校という限定された空間で物事を学ぶものだと一般に考えられている。では、そもそもその「学ぶ」という行為とは、一体どういうことを言うのだろうか?
 「学ぶ」ということは、ある行動様式を主体的に再現することについて、その再現のためにとるべき行動の「様式・形式を学ぶ」ということである。たとえば算数を学ぶのであれば、人は単に数や計算式「だけ」を学ぶのではなく、それらを用いることによって実際になされる

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脱学校的人間(新編集版)〈18〉

脱学校的人間(新編集版)〈18〉

 人が実際に学ぶことにおいて、そこで学ばれた一つの行動様式を、たとえそのように「実際に学び取った行動様式」として規定するとしても、しかしそれが「常に新しい行動様式として学ばれる限り」は、実はそこでは「行動様式として規定されていないものも含めて同時に学ばれている」ことにもなる。言い換えると、人がある一つの行動様式を学ぶとき、それを「常に新しい行動様式として学ぶ」ことにおいて、「その行動様式を規定する

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脱学校的人間(新編集版)〈19〉

脱学校的人間(新編集版)〈19〉

 人は誰もが学校という限定された空間で学ぶものである、というように一般では考えられているわけなのだが、実際にその学校の中においてなされている教育の、その対象となっているのは「誰なのか?」といえば、それは言うまでもなく「子どもという限定された時間」を現に生きている、ある特定の人間たちである。
 子どもという者らは何よりもまずそのように、教育の対象として設定されることになる。子どもという者らはそのよう

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脱学校的人間(新編集版)〈20〉

脱学校的人間(新編集版)〈20〉

 現在、教育とは子どもを対象としてなされるものだとして、それが全く自明のことと一般に考えられている。転じて言えば、教育の対象となる者は何よりもまず「子ども」と見なされることとなるというのもまた、自明なことであると思われているわけである。
 しかし、かつて「子どもは子どもとして扱われてはいなかった」(※1)のだという。彼らはいわば「小さな大人」として、その存在としては全く「大人同様」に扱われていたの

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脱学校的人間(新編集版)〈21〉

脱学校的人間(新編集版)〈21〉

 かつて「小さい大人=子ども」は、大人がしていることをそのまま教えられた。見方を変えれば、それはつまり「大人がしていることを、大人と同様にさせられていた」わけだが、しかしそのように教えられたからといって、彼らがそれを実際すぐにでも、そっくりそのままできるようになるかどうかはまた別の話である。
 どのような子どもであれ、はじめから何でも教えられた通りに「何もかも大人そのままにできた」というわけではあ

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