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天体観測

『きっかけ』は些細な姿をして、前触れもなく現れる。
 
それは姿形を変えて、陰陽な日々に潜んでいる。希望の最初の姿は恐れであり、悲しみは初対面喜びであったりする。もしかしたら『きっかけ』というやつは全て同一人物なのかもしれない。
 
さて、何かを始めるきっかけと、何かを終えるきっかけは、どっちが得難いのだろう?子どもがウルトラマンとゴジラどっちが強い?なんて考えるように無益な空想に耽ってみる。そもそも比較できるのか?分かりはしない。先に述べたようにその二つは同一の存在なのかもしれない。もしくは母体を同じとする兄弟のような関係なのかも。
 
取り留めが無い、埒も明かない問答だ。結局何かを見つけるには具体が必要になる。匿名より記名、無名より有名…人はその存在がより具体的である為に確かな『名前』を求めるのかもしれない。名無しの俺の抽象で具体のエピソード、始まりと終わりの曖昧なきっかけ、その解答。これから先はそんな主観の話になる。
 
 
兄、34歳独身、自宅警備員歴二年。
弟、29歳独身、兄の保護者歴二年。
 
哀しいかな兄が俺である。どこか項目の一つでも入れ替えて貰えないだろうか?叶わない願いである。音楽一家に生まれた俺は母の厳しい指導の下そこそこの音大へ行き、そこそこの成績で卒業、そこそこな社会活動の後、そこそこの自宅警備員生活を満喫している。
 
弟は俺と対照的に堅実な社会生活を営んできた。芸術は干渉する側に徹した人生。それが誰の望みに叶った生き方なのかは分からない。エリート編集者街道を歩んでいた弟の人生設計は俺の存在により狂わされた。主だって、頗る悪い方向に。
 
弟に養われている。もしくは。
弟に飼いならされている。ならば。
弟に憎まれている。だから。
 
…これから先は考えちゃいけない。平穏に生きていくためには深く考えちゃいけないこともある。 俺は熟慮せず弟にお金を貰い、考慮せず弟の手料理を食べ、浅慮だって弟と会話し、思慮浅く自宅に籠る。名付けて四慮自宅警備員生活。この日常に違和感を感じてはいけないのだ。これからもずっと。
 
「調律師の樋口さん、兄貴と話したいって」
 
扉越しの弟の一言で、日常はガラリと変わる。弟が自宅に招いた調律師が、俺と話がしたいと言っているらしい。突然の超展開。どうして?
 
「いや、無理」
「どうしても聞きたいことあるって」
「断れよ。ハードル高いって、無理」
「二年前のほら、あのピアノ。樋口さんが調律したんだって。嫌なら断るよ」
 
弟曰く、その調律師は俺が引きこもる『きっかけ』になった出来事に遠からず関係がある人物らしい。それは偶然か必然か、計略か。弟は俺に取り次いだ、何故か?俺の許可なく断ることも出来たろう、なのに何故?…それから先は考えなかった。何にしても、俺はその調律師と会わなくちゃいけない気がした。贖罪、責任、兄として…二年の隠遁生活は俺の行動に理由を付きまとわせない。深く考えたら負けなのだ。俺は無思慮に扉を開くことにした。
 
弟と一緒に男の待つ部屋に入る。そこは古くから防音部屋であり、演奏部屋であり、説教部屋でもある。男は初老を迎えた中年、精悍な顔をしている。調律作業は既に終わっているらしい。男は俺を目視し、口を開く。
 
「樋口です。この度はどうも」
 
いえ、こちらこそ…その一言が喉を通らず、俺は黙りこくった。男は関せず続ける。
 
「管理は悪くない。でも碌に弾いてないね。最後に弾いたのはいつ?」
「私が先日、少し触りました」弟は答える。
「君は?」
 
俺は首を振る。
 
「ふうん。で、本題なんだけど、君が二年前、新宿の劇場で弾いたあのピアノ、俺が調律したんだ。シュタイン製の希少モデル。あの場に似つかわしくない貴重な骨董ピアノ」
「……」
「君は本番、突然演奏を中断したらしいね。どうして?聞きたいことはそれだ」
 
…この人馴れ馴れし過ぎないか?いきなり初対面に何を聞いてるんだろう。礼儀知らずだ。相手のペースに決して合わせないタイプ、俺が苦手な大人だ。
 
「喋れる?」
「すみません、兄は何分…」
「あの…自分は…」
 
俺は言葉を紡いだ。緊張から腋をぐっしょり濡らして。
 
「ただ、弾けなくなっただけです。気持ちの糸が切れた。自分が素人だった、それだけです」
「つまり、あのピアノは出来事に関係が無いと」
「ありません。素晴らしいピアノでした。あなたの調律のお陰です」
「そうか…」
 
一度開いた口からは思いのほか滑かに言葉が出た。自分でも意外だ。俺は今、普通の会話をしている。
 
「いや、俺が気になったのは…もしかしたら君の演奏を阻害した原因がピアノにあったんじゃないかと思ったんだ。俺はその一件を耳にし、会場に向かった。しかしピアノには何も問題は無かった。俺の調律は完璧だった。だったら、完璧だったからこその問題があったんじゃないかって」
「それは、つまり?」
「昔、出先のモスクワで調律した時、ある伝承を耳にした。ある高名な調律師が調律した出自不明のピアノがイルクーツクのカテドラルにあったと。そこに名高いピアニストが演奏に赴いたらしい。そのピアニストが鍵盤に手をかけた時、男は極度の不安に襲われピアノを弾くことが出来なくなった。男は突然、今で言うイップスになったんだ」
「何故ですか?」
「分からない。男は泣き出して、意味不明な事を宣った『このピアノは私には弾けない。その資格が無い。カモメは死んだ』と。それから天才と謳われたピアニストは生涯ピアノに触れなかった。もしかしたら男はクスリでもやってたのかもしれない。それとも直前何かの咎を犯したのかもしれない。所詮伝承だ、尾ひれはひれもあるだろう。でも俺は興味を惹かれた。ある特別な資格を持ったピアノと、完璧な調律、才ある演奏者の間に調和が生まれた時、そこには当事者しか体験できない『特別な何か』があるんじゃないかって」
「それが、私の一件と?」
「うん。もしかしたら君も体験したのかと思って。聞いてみたかったんだ。職業柄の好奇心で」
「いえ…あなたの調律は完璧でした。ピアノも、独自の風格を持つ特異なものでした。しかし残念ながら、自分は無才の凡人です。ご期待に沿えず申し訳ありません」
 
調律師は弟を見やる。弟は沈黙している。
 
「…お話ありがとうございます。そろそろおいとまします。御宅の貴重なピアノを触れてよかった。よければ弾いてみてください。あれは良いピアノです。私が保証します」
 
玄関先で男を見送った。よく知らないおっさんからよく分からない話を聞かされただけなのだが…二年ぶりの他人との会話は想像よりあっけない風景として過ぎ去った。どうしてだろう。耐性が出来ていたのかもしれない。日々弟と異常な状況で、普通の会話を続けていることで。玄関先で兄弟の沈黙は続く。先に喋り出すべきは弟だろう。それは弟も理解しているようだ。意を決したのか、弟はくぐもった声で言った。
 
「ありがとう。勇気出してくれて」
 
お前もな。何となく、ピアノに触れてみようと思った。理由は分からない。でも心の奥底では分かってる気がする。二年ぶりだが、指先は動くだろうか?
 
「リクエストある?」
「マジ?」
 
弟は目を輝かせた。
 
「今俺調子に乗ってるから。気分が変わらない内に」
「バンプの天体観測」
「え、そっち?」
「いきなり夜想曲とか無理っしょ」
 
便利な時代だ。ネットに潜れば大抵の名曲はピアノに編曲された楽譜が見つかる。弟の12インチのタブレットに楽譜を表示させる。弟が隣に立ち、俺は鈍った指先で旋律を奏で始める…ヘタクソで、失敗ばかり、まるで素人な演奏だ。でも楽しい。和音が汚い。でも良い音だ。少年時代と同じように弟が楽譜をめくる。沢山の思い出が甦る。泣き虫な俺の琴線は限界に近づいていた。
 
子どもの頃の弟は俺が演奏を失敗する度にニヤニヤ笑っていた。ムカつく笑顔。久しぶりにあの顔が見たい。そう思いチラと覗いた弟の顔は、泣き濡れていた。

……。

そっか。つまり、そういうことなら、俺は泣けない。兄弟の片方が泣いてるなら、もう片方は笑顔でいたい。思えば俺たちはずっとそんな関係だった気がする。俺はただ久しぶりの覚束無い演奏を心から楽しんだ。
 
「イマ」というほうき星、君と二人追いかけている。良い歌詞だなぁ。リハビリしよう。深く考えてみよう。感謝を伝えよう。『弟』の泣き顔は、兄の大好物なんだから。オーイェーアハーン。

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