廃名 『菱蕩』 (翻訳後記)

廃名 『菱蕩』 (翻訳後記)

廃名の写真を見たとき、大川周明に似ていると思った。 求道的な眼をしており、そこはかとない「ヤバみ」が感じられる。 この「ヤバみ」は、「ゼンみ(禅味)」から来るらしい。 廃名(名を廃する)というペンネームからしてそうである。 本名は馮文炳という。 彼は小説だけでなく、詩も書いた。 この『菱蕩』という作品も、これといったストーリーはなく、長い詩のようなもの、といってもいいのかもしれない。 この作品の主人公は後半にひょっこり現れる「陳聾子」なのかもしれないが、全体の多

廃名 『菱蕩』 (終)

廃名 『菱蕩』 (終)

 すでに日が西方の山に沈むなか、青空に覆われた菱蕩圩は緑のままで、さまざまに彩り、土手の上のお寺は白い壁、土手の下には聾子ひとり。彼はようやく家から畑にやって来る。バケツを担ぎ、鍬をたずさえて。彼は畑のピーマンに水をやる。彼は耳でわかる――菱蕩に数人の女が洗濯に来たと。風がとても涼しい。バケツをあぜ道で休ませ、鍬をあぜ道に沿わせながら、目は一つひとつの茄子を追った。ピーマンにはもう赤いのもあるが、すぐそばまで寄ってみないと分からない。  元のところに戻って、天秤棒をバケツの

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213日目。【短編】朝の電車。

213日目。【短編】朝の電車。

ふと、山手線に乗り続けていたらどこまで行けるのか確かめたくなった。 1日乗車券を買い、(勿論、初乗り運賃で乗り続けることはしない)朝6時頃、乗り込んだ。 目の前のお姉さんは寝ている。 隣のお兄さんは怖い顔でタブレットを触っている。 僕は死んだ目でスマホを触っている。 誰も何も見ていない。 7駅ほど行ったところで、隣のお兄さんは降りていった。 お姉さんは眠り続けている。 このまま放っておけばずっと寝てるんじゃないか。 スマホを触るのも飽きたので、外の景色を見た

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廃名 『菱蕩』 (4)

廃名 『菱蕩』 (4)

 聾の陳さんは、普段は「陳」の字を省略し、ただ「聾子」と呼ばれている。彼は陶家村で十数年間働いているが、人前で話すことがめったにないので、人々は彼が話すのを聞いてみたいこともあって、からかい半分にそう呼ぶのである。しかしこれは、陶家村に来てからではないかもしれず、陶家村に来る前にはもう他の名を持っていないようでもあった。二郎じいさんの菜園は彼が耕したので、菜園から育った野菜も彼が担いで街に売りに行く。彼は二郎じいさんに信頼されており、帰ってくると一文一文お金を数えながら二郎じ

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死に目

死に目

 猫は死に目を晒さないというけれど、猫に限らず弱った野生動物は外敵を恐れて身を隠し、時にそのまま絶命するのが自然の習いなのであって、そこに特段の神秘はない。だから家のなかだけで飼っていれば、ある朝ちゃんと、という言い方が適当なのかどうか分からないが、いつものソファーの上で眠るように息絶えていたりもする。昔飼っていた影丸がそうだった。八百屋の軒先で拾った時には多分生後二か月くらいで、八ヶ月目に去勢され、恋をした経験もないまま生きて、暖かな部屋のなかでぬいぐるみのようになって死ん

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神戸駅まで(後編)

神戸駅まで(後編)

○明石 西明石駅を出発する電車は、さっきより乗客が減ったからか、軽やかな加速に感じられる。何度もこの路線を乗っていると、その違いもわかるものだ。 いや、本当は、何も変わっていないのかもしれない。 向かいの席、通路側に腰掛けている妊婦さんの話は、とても面白いものだった。 それと同等に、彼女の話が進むにつれ気分が悪くなっていく、隣の母親にも興味があった。 この二人は、出発した時から変だった。 私がこの席に座っているとき、二人が一緒にこの車両に入ってきたときは、仲睦まじい雰囲

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廃名 『菱蕩』 (3)

廃名 『菱蕩』 (3)

 菱蕩は陶家村に属し、その周りには常緑樹の矮林があり、密に生えている。土手の上を歩くと、清らかな川の一角が見える。岸辺には、緑の草から咲いた野花が、輪をつくっている。通り口に二つ、菜園に一つ。聾の陳さんの畑もここにあった。  菱蕩の深さは、陶家村の二郎じいさんがよく知っている。二郎じいさんは七十八の老人で、彼がいうには、道光十九年[1835年]のとき、菱蕩は干潟にはならずとも、あと少しで底が見えるところだったという。網でとった大小の魚は少なくなく、鯉の大きいのは十キロもあっ

異世界課

異世界課

1.夜。街が鎮まり始める頃。都内某所。 トラックがスピードを出して走っている。 横断歩道には1人の男性。 しかしトラックは徐行することなく、その巨体を軋ませて横断歩道へと突っ込んでいく。 キキーッ、ドンッ 派手な音と共にトラックが停車した。斜向かいのコンビニからは黒人の店員がこちらをギョッとした目で見つめている。 トラックのドアが開き、降りてきたのは若い男だった。 キョロキョロとあたりを見回し、うんうんと頷いて満足そうにまたトラックに戻って行く。 数刻の後、トラッ

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廃名 『菱蕩』 (2)

廃名 『菱蕩』 (2)

 塔はさほど高くなく、大きな楓の木が高だかと塔の頭上に伸び、遠路をゆく者はいつもその木蔭でひと休みする。その木の下にすわると、菱蕩圩が一望できた──見えるのは菱蕩圩の天地だけで、土手の上に山が一つ、二つあり、近くないことは分かるが、林が山の中腹に見える。菱蕩圩は大きい圩とはいえない。花かごの形をしているが、そのかごの中に花はなく、底から緑が萌えるばかり──ただし、そばや菜の花が咲くころは、その花で埋めつくされる。水田はひと目でそれとわかるけれども、林の中はたくさんのかたまりが

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廃名 『菱蕩』 (1)

廃名 『菱蕩』 (1)

 陶家村は菱蕩圩[圩は堤に囲まれた低地]の土手の上にあり、城[市街地]から半里もなく、土手をくだって橋を渡り、砂州を歩けば、城の西門につく。  一列にならぶ、十ばかりの瓦屋根、土壁、石灰にふちどられたレンガはくっきりとして、太陽の下でいっそう輝き、陶家村がいつも景気のよいことを示している。奥の竹やぶでは、緑の葉っぱが階段のように積みかさなり、その傾斜は河岸までつづき、川は竹にそって曲がりくねり、さらさらと流れる。ここは城にほど近く、間に川しかなく、城壁の一部は川にのぞんで生

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