本ノ猪
読書から日常を変える。
読書から日常を変える
ショッピングモール内のソファに腰かけて、本を読むと、食の衝動買いをしがちになる。 持ち運びがしやすい、気軽に読める、ということでエッセイ・随筆は採用されやすく、となると話題の一つに食が必ず入ってくる。 「これ旨そう……」となったら、実物が見てみたい。特定の店の料理でなければ、ショッピングモール内で大抵見つけることができる。 実物が発見されれば、次は実際に味わってみたくなる……こうして衝動買いに行き着く。 * 最近では、ヒレカツを衝動買いした。その日の晩ご飯はカレ
実体験がベースとなった、ある夢を見たとする。そこから目覚めて、「嫌な夢見たな……」と感じたとき、その実体験が自分の思っている以上に精神的負担になっていたことに気づく。その夢を、幾度も見るようであれば尚更だ。 * 朝六時半出勤の労働に従事していた頃。最大のミッションは、遅刻しないことであった。労働内容には特に苦になる要素はなかったので、とにかく寝坊しなければ、1日の労働をすべて終えたような気分になれた。 寝坊しないためにできることの第一は、前日に早く寝ることである。夜
夏は蒸し風呂、冬は底冷え。この二点が我慢できれば、京都は住むのになかなかいい場所である。 今の私が、20年前の私に自慢できることがあるとすれば、京都で暮らしている、この一点に絞られる。日本史の資料集をめくりながら、うっとりしていた小学生の私は、この事実に喜んで踊り出すに違いない。 * 京都という空間では時間がゆっくり流れている。この感覚は、住む年数に応じて、ますます高まっている。 ゆっくり流れている、ように感じる、とはつまりどういうことか。それは、時流によって自分
この本の、この一文に救われた。こういう体験を、10代の頃に味わいたかったと思うことがある。自身の進路に思い悩む時期、私は本と無縁の生活を送っていた。 * 数年前、ある友人に大学の学園祭に誘われて、彼の所属する文芸部に顔を出したことがある。各部員から簡単な自己紹介があり、話は自然とこれまで読んできた本の話題に移っていった。 先程布団から出てきたと言わんばかりの、寝癖を披露する部員の一人は、「子どもの頃、本に何度も救ってもらった」という。口ぶりに熱がこもっていたので、「
食事を済ませて、店を出ると、横にいる友人から「味、どうやった?」と訊かれる。ありふれた流れ。 友人の方から食事に誘われていた場合、どれだけ不味くても、正直にそれを口にすることはない。まあ、不味いことなどほとんどないわけだが、「うーん……」と感想に窮してしまうことはある。 決して不味いわけではない。むしろ、美味しかったりもするのだが、何か心中に「なんか、違うな……」と引っかかるものがある。 * この引っかかりの原因はなんだろう。この疑問は、頭の片隅で燻り続けていたが
作家の吉村昭に「闇の中」というエッセイがある。 タイトルだけでは内容を予想できないが、それは次の一文から始まる。 「読者の顔は、濃い闇の中に埋れていて見えない。」 このエッセイの主題は「読者」。自分の書いた作品が、いったいどのような読者に届いているのか。そもそも、誰かに届いているのか。その不安感が、いくつかのエピソードとともに綴られる。 * このエピソードは、私の頭の中の「吉村昭像」と照らして、大変意外性を感じるものであった。 『羆嵐』を始めとする数冊の作品を
このご時世、どんなものにもレビューサイトが存在する。 何か商品を購入したり、サービスを利用しようとするとき、とりあえず、レビューがどんな感じになっているのかを確認する。この「とりあえず」は非常に曲者で、人によっては“あえて”見ないようにしようと、意識しなければ避けられないほどに、レビューサイトは日常生活に溶け込んでいる。 * この流れだと、「レビューサイトなど一切見るな!」というご高説が展開されそうだが、そうは書かない、というか書けない。私もレビューサイトのお世話に
先日、『アーモンド』という小説を読み終わった。扁桃体にまつわる先天的な病により、喜ぶ・悲しむといった感情表出に障がいのある少年の姿が描かれる。 本書の中心テーマは、心とは何か、感情とは何か、である。私もそのテーマに沿う形で、自身の生活を振り返ってみた。 * 感情にまつわる言葉で、真っ先に頭に浮かんできたのが「喜怒哀楽」であったから、試みにここ一、二週間、この四つの感情がどれぐらい生活上に表れていたのかを、確かめたいと思った。簡単にパーセントで示してみようと考えてはみ
じっくり吟味して本を買うこともあれば、短時間でパパッと購入にいたる場合もある。 できれば前者を徹底したい。後者は、予期せぬ素敵な出会いにつながることもないではないが、大抵失敗に終わるからだ。 * 出先で見かけた書店にふらっと立ち寄ると、店内放送で、あと数分で閉店時間を迎えることを知る。別に明日、命が尽きるわけでもないから、慌てて本を購入する必要もないのに、その日はなぜか「何か買わねば」と焦っていた。 文庫コーナーの棚を猛スピードでチェックしていると、『人体大全』と
先日、ある古本屋で十数冊の文庫本とお別れしたあと、その近所にある友人の家を訪ねた。 急な訪問にもかかわらず、友人はあたたかく出迎えてくれる。軽井沢から取り寄せたというチーズケーキまでご馳走になった。 このチーズケーキ。私の頭の中のイメージとは、明らかに次元が違うチーズケーキだった。口に含んだときの食感から、それは直感され、絶妙な甘さに、舌を巻く。ありのままの感想を口にすると、友人は「そうなんよ、うまいんよ」とご満悦。余程嬉しかったのか、どのようにこのチーズケーキと出会っ
十代後半まで、活字と距離を置いてきた身からすると、本好きがそういう人間にどんな作家をお勧めしようとするか、が分かってくる。 実経験から話すなら、そのトップは星新一。父親から親戚のおじさん、近所の図書館の司書さん、体育の先生に至るまで、みな揃って「星新一、いいよ」と勧めてきた。 勧められる側から勧める側になると、なぜ星新一がお勧めされやすいのか、が何となく摑めてくる。一篇一篇の短さ、アイデアの秀逸さ、読者が適度に距離をとれる匿名の登場人物たち……あげだしたら切りがない。
ふと、「そういえば、あんな小説読んだな」と思い出されることがある。このとき、思い出されるシーンが特異であったりすると、「意外と、印象に残ってたんだな」と発見がある。 * 以前、この和室の部屋を訪れたとき、私は友人とお汁粉を食べていた。 友人から我が家でお汁粉を作ってほしいと頼まれて、畳の部屋で食べるのも悪くない、と承諾する。11月、暖かいものが食べたくなる時期だった。 今回訪ねたのは、見てもらいたいものがある、と友人から連絡が来たからだが、それに付された「ミスタ
私は一度、数人の友人の中で死んだことにされたことがある。 死亡説が流れたのだ。 原因は、あるといえばある。それなりによくつるんでいた仲だったが、大学進学後、私がめっきり連絡をとらなくなったからだ。 別に拒絶していたわけではない。単純に、大学の学業と労働を両立させることで精一杯で、高校時代の友人を相手にする余裕がなかったのだ。私以外、地元の大学に進学していたことも大きかったかもしれない。 とはいえ、さすがに死亡説は行き過ぎである。人によっては笑い事で済ませれないと思う
小学生時代の転校体験には、あまりいい思い出はないが、それによって得られたことはゼロではない。 自分と縁のある土地が、日本各地(といっても九州中心だが)に散在しているというのは、悪くない。たまたま目にしたニュースに、自身がかつて住んでいた地域が取り上げられていると、親近感からか興味が湧く。「この祭り、よく行ったな」と思いを馳せるとき、そこにネガティブな感情はない。 * 複数の地で生活したからこそ、気づいたことがある。一つあげるなら、水道水の味だ。 こう書くと、水の風
今回は、イギリスの作家、ロアルド・ダールの話をしたい。 彼の作品を初めて読んだのは、大学一回生の頃。読書とは無縁の生活を送っていた、高校時代までの自分を刷新するために、ひたすら本を貪り読んでいた時期である。 振り返ると、この時期の乱読の反動で、再び読書とは距離を置く人生が始まっていてもおかしくはなかった。そうならなかったのは、私を本のラビリンスに閉じ込めて、二度と出れなくした、幾人かの作家がいたからである。 その中の一人が、冒頭であげたロアルド・ダールだった。 *
生活空間を確保できなくなる。そのレベルにまで至らなければ、蔵書はいくら増えても構わない、と思うようになった。 * 自由に使える時間がある。でもお金はない。仮にお金はあっても、わざわざ人混みに行こうとは思わない。 こういう習性をもつ友人・知人が、我が家には集まってくる。集まってくる、といっても、複数人でガヤガヤ騒ぐ、なんてことにはならない。友人と私、家には大抵二人しかいない。 訪問して何をするのか。話すか、本を読むか。前者には、他人の存在が要る。後者には、他人は必要