見出し画像

短篇「Erybell」~シロクマ文芸部お題「海の日を」

 海の日を枕元の卓上カレンダーから消す。正確には七月二〇日をマジックで塗りつぶす。海の日が制定される前から毎年繰り返してきたことだ。あの忌々しい記憶を消去するために。また直後に起きた不思議で幸せな思い出を忘れないために。あれから随分と歳月が流れた。わたしはベッドの介護テーブル上の卓上カレンダーの横にある写真を手に取り、枕元に置いた。
 
 あの日は朝から直射日光で地面から湯気が立ち上るほど猛暑の一日だった。現場で身体中の水分が搾り取られるほど過酷な環境下、一日働き詰めで夕刻に自家用車で帰宅するときも、いくらエアコンを強くしても汗が引かず、サンバイザー越しに照りつける陽光に苛ついて、家路を急ぐ余りアクセルを強く踏みがちだった。
 大通りを抜けて狭い路地に入り、自宅についたときには心底ほっとした。シャワーを浴びて冷えたビールを飲み干し、家族で食事をするのが楽しみだった。暑さで朦朧とした頭に少しでも早くという気持ちが焦りを生んだのだろう。ガレージにバックで入れるときに細心の注意を怠った。
 何かが当たる手応えを感じた。小さな悲鳴が聞こえた。ブレーキを踏むのが一瞬遅れてタイヤから嫌な感触が伝わってきた。
 悲鳴とも雄叫びとも聞こえる甲高い声が車の窓越しに聞こえてきた。わたしは慌てて車を降りて車とガレージを見た。状況を悟って震える膝を堪えながら車の後部に駆け寄った。玄関から妻が走ってきた。
「絵里ちゃん!」
 車体とガレージの間に少女が挟まれ、頭から血を流して倒れていた。娘の絵里だった。腰から下は車のタイヤに踏み潰され、辺りが血に染まっていた。絵里は既に意識がなく巻き毛の黒髪を地面に垂らしたままガレージの壁にもたれかかっていた。
「あなた!救急車!何してんのよ!」妻が泣き叫んで絵里に寄り添って叫んだ。呆然としていたわたしは膝の震えが止まらないまま家に駆け込み、一一九番を回した。
 十数分で救急車が来て、絵里は病院に運ばれたが、既に危篤状態だった。救急車に同乗したわたしと妻の願いも虚しく、病院につく前に息を引き取った。
 
 わたしは過失致死罪で有罪となったがそんなことはどうでも良いことだった。わたしと妻と娘の絵里の三人でごく普通のそれなりに幸せな暮らしをしていた日々が七月二〇日の夕刻に一瞬にして崩れ去った。絵里の死後、わたしと妻の間にいくら塗っても決して塗りつぶすことのできない空白と、どんなに大声で叫んでも聞こえない壁ができた。二人の間で最初は言い争いが絶えなかった。しかしその言い争いも半年もすれば無くなり、ただ無言で過ごす空虚な日々が続いた。どちらも離婚を考えていて、いつ言い出してもおかしくない状況だった。
 無理もない。わたしは事故の後、葬儀や警察の事情聴取やその他の雑務に追われたが、それが一段落しても会社に行かず、部屋に閉じこもって机の写真立てに写っている家族三人の笑顔を眺めながらぼんやりと毎日過ごしていた。しまいには、朝から酒を飲むようになり、妻も愛想を尽かし、口をきかなくなるのも当然だった。
 
 そんなときである。不思議な少女と出会った。
 絵里の一周忌を終えた頃、昼過ぎに一人の少女が訪ねてきた。妻が外出していたので、いつものように少し酒に酔いながら玄関に出てみると、白い日傘をさした黒い巻き毛の少女が立っていた。絵里と同じくらいの一〇歳程度だろうか。絵里とどことなく似ていたが、肌が不自然なほど白く目が青かった。白いワンピースを着て、白いサンダル靴を履いていた。
「はじめまして。エリーと申します。絵里さんにお線香を上げに参りました」
 少女はそう言うと、丁寧にお辞儀をした。わたしは、絵里に似ている上に、年齢に似つかわしくない余りの品の良さと礼儀正しさに驚いてしまい、しばらく唖然とした後、慌てて家の中に彼女を通したのだった。
 エリーと名乗るその少女は、絵里の仏前に手を合わせてから、わたしに言った。
「奥様はご不在ですか」
「はい。今、出ておりますが、すぐに帰ってくると思います」
「そうですか。それではまた明日参りますね」
「え?」
 わたしは驚いた。近くに住んでいるのだろうか。そもそも絵里とはどういう関係なのだろうか。
「あの、絵里のお友達ですか」
「あ、はい。来るのが遅くなってしまってすみません。」少女は屈託のない笑顔を見せた。「絵里さんとは仲良くさせて頂いていました」
 少女はそう言うと、立ち上がり、玄関に向かった。わたしは不思議な気がした。絵里からこのような友人がいるとは聞いたことがなかったからだ。妻なら何か知っているだろうか。
 少女は丁寧にお辞儀をすると、玄関を出て白い日傘をさして、そのまま優雅に歩き去った。

 エリーと名乗るその少女は言ったとおり翌日も昼過ぎにやってきた。妻も驚いていた。少女の気品と香りさえ漂う優雅な振る舞いは大人のそれだった。だが妻もその少女のことは何も知らなかった。絵里にこのような友人がいるとは聞いてなかったのだ。少女は、昨日と同じように仏前に手を合わせると挨拶をして帰って行った。
 それからどれくらい続いただろう。少女は、毎日昼過ぎにやってきて絵里に線香を上げてわたしたち夫婦の話し相手を少ししてから帰って行った。まるで毎日同じ映像を繰り返し見ているような錯覚すら覚えた。しかし、その少女の品の良さと優雅さ、可愛さ、そして何よりも少し絵里に似たところのある面影、それらがわたしたちを幸せな気持ちにさせた。いつのまにか毎日、彼女が来る時間を楽しみにするようにさえなっていた。
 不思議な日々だった。夏が過ぎ、秋になっても少女はやってきた。装束は秋になると白いワンピースから赤いワンピースに変わった。白い日傘は、赤い日傘に変わった。靴も白から赤に変わった。それ以外は何も変わらなかった。いつも同じように白く柔らかな肌で甘い香りを漂わせていた。
 冬になっても、春になっても少女は来た。冬になると黒いワンピースに変わり、春になると黄色いワンピースに変わった。わたしと妻は、魅入られたように毎日彼女と同じ時間を同じように過ごした。わずか一時間足らずだったが、わたしたち夫婦にとってはそれが心の支えとなり、生きがいとなった。
 傾いた玄関の表札がいつのまにか真っ直ぐに戻っていた。荒れていた庭の花が次第に生気を取り戻し彩り始めた。カーテンで閉ざされていた部屋に光が差し込むようになった。
 また夏が来た。少女は白い日傘と白いワンピースに戻っていた。三周忌が過ぎた。白、赤、黒、黄、白、赤、黒、黄、白…
 三年経った。
 わたしの酒浸りだった生活はいつのまにか終止符をうっていた。それまで務めていた会社は無断欠勤でとうの昔にクビになっていたが、新しい勤め先をいくつか紹介してくれた。もう一度人生をやり直そうと決意を固めつつあった。妻も元気を取り戻していた。
 そうして絵里を亡くしてから、四年目の春が来るころ、いつものように少女が昼過ぎにやってきて言った。
「今日でここに来られるのも最後になります。長い間ありがとうございました」
 妻とわたしは、少女の突然のもの言いに少し驚いたが、実のところもうそろそろ別れのときがくるのではないかと内心予感していた部分があり、別れの挨拶を受け入れるのは比較的容易だった。
「こちらこそ毎日ありがとうございました。ご両親に……」ご両親によろしくお伝えくださいと言おうとして、二人は顔を見合わせた。なんと三年も経っているのに少女の両親について全く聞いていなかったのだ。常識的に、真っ先にまず両親にお礼を言うべき立場にありながら、少女の正体についてまるで知らないことに今さら二人は気づいたのだった。
 少女はいつものように上品な笑みを浮かべると、お辞儀をして黄色い日傘と黄色いワンピース姿で家を後にした。
 いったい彼女は何者だったのだろうか。その夜わたしと妻は不思議な少女について語り合った。そして一番重要なことに気がついた。
 三年の間、少女の姿は少しも変わらなかった。育ち盛りのはずの年代でありながら、少しも歳をとらず、病気にもならず、いつも同じ姿と同じ面持ちでいたことに気づいたのである。真に人間だったのだろうか。わたしたちは幻を見ていたのだろうか。
 だがそんなことはどうでも良かった。わたしはこの春から新しい仕事に就く。夫婦生活は再び動き出す。
 もちろん絵里のことはわたしの過ちであることに変わりはない。だから自分を戒めるために毎年カレンダーの七月二〇日は塗りつぶすことにした。
 
 あれから五〇年近く経った。わたしは末期がんで病院にいる。丁度暦が変わり、いつものように枕元のカレンダーから七月二〇日を消したところだ。もう長くはないだろう。妻は五年前に亡くなった。結局、子供は絵里だけで二人目を授かることはなかった。でも十分に生きたし幸せだった。だから思い残すことは何もない。
 昼食は喉を通らなかった。ベッドに横になったまま、ぼんやりしているとベッドを仕切るカーテンがゆっくりと開いた。看護師さんだろうと思って見ると、あの少女がいた。姿も顔立ちもあのときのままだった。黒いワンピース姿で白い肌と巻き毛の黒髪。時が止まっていた。しかしわたしは驚かなかった。何となく最後に会いに来てくれるような気がしていた。
「久しぶりだね。何十年ぶりかな。」わたしはベッドに横たわったまま、枕元のパイプ椅子に腰掛けている少女に向かって言った。少女は巻き毛の黒髪をいじりながら答えた「そんなに経っていますか。昨日のような気もするけど」
「君の名前を教えてくれないかい」
「わたしはエリー。Erybell」少女は優しく微笑むとそう答えて、わたしの老いて痩せこけた額を撫でた。
「ありがとう、エリー。疲れたから少し眠るよ」
 わたしは枕元に置いてある家族三人の写真に痩せた手で触れた。意識が漆黒の海に沈んでいった。小さな声が聞こえた気がした。
「さようなら、パパ」

(了)


本作は、シロクマ文芸部参加作品です。いつも企画ありがとうございます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?