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#人間
脱学校的人間(新編集版)〈1〉
人間にとって、「学校」とは一体何なのだろうか?
たとえば、「社会が学校化している」などと言われる。しかし、もしそれがただ単に「学校化した社会とは要するに、あたかも学校の中にいるかのような社会のことだ」などというように考えられているものだとするならば、あまりに短絡的で間の抜けた認識だと言う他はない。あるいはもし「もともと社会はそうではなかったはずなのに、今ではまるで学校の中にいるかのようなものに
脱学校的人間(新編集版)〈2〉
一般に人は、自らが社会で生きていくためには何らかの教育を受けることが必要であり、そのために学校はつくられたのだと考える。しかし、実際にはその全く逆なのである。
まず、「人々が社会の中で自らの存在・生命・生活を維持していくためには、たとえば教育などの社会的なツールを必要としなければならない」といった社会的な必須条件を、人間全般に対して構造的に課せられている。そして、そのようにすることによってよう
脱学校的人間(新編集版)〈3〉
学校化への欲望は、かのマララ・ユスフザイが国連において行なったスピーチの、その締めくくりの一節において一つの概念として端的に集約され、結晶し、そして正当化されている。
彼女は声も高らかに(あえて言えば臆面もなく)、こう言い放ったのであった。
「教育が唯一の方策である。教育こそ第一なのだ(Education is the only solution. Education first. )」
と
脱学校的人間(新編集版)〈4〉
学校化は、現実の生活の中においては全くといっていいほどそれと意識されるようなこともなく、一体何をもってそれが学校化なのであるかなどということが、具体的に目に見えて見出されることも、あるいは実際に手に取って確かめられるようなこともない。なぜなら、現実の生活そのものが全く学校化しているからだ。
このようにして学校化という概念は、現実に生きられている生活の様式そのものに染み込み、そしてそのような生活
脱学校的人間(新編集版)〈5〉
人々の現実生活における価値基準の同一化、あるいは価値形成の制度化は、人々の個々個別で現実的な行動様式・生活様式を社会的な制度として一元化し、一般化する。言い換えるとそれは、人々の現実の生活を制度的に編成し直す形で一元化し、一般化された行動様式・生活様式として制度化していくのである。それをまさしく一元的・一般的に人々の現実の生活に適用していく社会的機能が学校なのだ、ということになる。そして、そのよ
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全ての人間が関わっていなければならない「学校的なもの」とは、まず第一に「学校という制度そのもの」であるのは言うまでもない。ゆえに、それに常に絶えず関係していなければならない全ての人間の現実生活そのものは、避け難く「制度的なもの」になっていく。
そして人はその制度にもとづいて、自分自身に対しその制度の立て付けに見合ったさまざまな社会的な有用性を付け加えていく。その作業もまた、その制度の中で、その
脱学校的人間(新編集版)〈7〉
人は学校によって、あるいは学校によってのみ「社会的に人間となる」ように教えられ、そのような「社会的な人間になる方法」を学ぶのだというように一般に人々には考えられていることだろう。そのように一般的に考えられている「社会的な人間のなりかた」というものとは、「人間であるため」に必要な技術・教養・慣習・規則・礼儀・道徳・秩序として、具体的でありながらなおかつ「一般的なもの」として、学校を通じて「全ての人
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山本哲士は、学校を正当化する考えというものは、その使用者にとってそれが自らの必要や利益に奉仕していることを信じていなければ、制度あるいはシステムとして維持されることができない、ゆえに単なる上からの押しつけではなく、使用者自らの必要として自らに押しつけていく、その自発性にこそ制度的な特徴があるのだ、と分析する(※1)。
一般に物事の「正当化」というものは、その対象となる事柄の正当性が失われうるこ
脱学校的人間(新編集版)〈10〉
現に生きているその社会の中で、「それ以外の生きる仕方」というものが全く考えられず、それなしにはただ単に生きていくことすらできないというほどにまで制度化された生活の仕方=様式は、それ以外のやり方において人は一瞬たりとも生きることができないのだから、人々は実際にそのような生活の仕方・手段・方法のみを頼りにして現に生きている。それどころか、あたかもそれが人間にとって「生来的な生活様式」であるかのように
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学校の、社会的に一元化された制度としての問題は、それに対する人々の「依存性の強さ」としてもあらわれてくる。
内田樹は、学校が人々に必要とされている理由について「従来通りの努力と成果が見合う、適切なプロモーション・システムとして現に活用している人たちがまだいるということが、問題をいっそう複雑にして」(※1)いるのだと指摘している。
「学校を現に活用している人たち」とは、端的に言うと「学校を現に
脱学校的人間(新編集版)〈12〉
それなしにはもはや生きていくことさえできないというまでに至る、ほとんど全ての人たちにおける制度的生活への強い依存とは、たとえば「一つの病の様相」だと言えるだろうか?
然り。それはたしかにそうなのだと言えるだろう。
であれば、それは「異常なこと」だと言えるものなのだろうか?
否。それはむしろそうではないだろう。
制度というものは、言うまでもなく「社会の正常化」を志向している。ゆえに、それに
脱学校的人間(新編集版)〈13〉
全ての人間が、何らかの形で学校を経由して社会に送り出されてくる。逆に言えばそのように学校を経由した者のみが、人間として社会的にその存在を認められるところとなる。その認証プロセスを担うのが言うまでもなく、社会的制度・機能としての学校である。ゆえに学校は社会的であり、社会は学校的なのだ。
まずはそこで、まさしくその名において象徴される「学校」の教育的な機能について、それがいかに人間の生活全体にわた
脱学校的人間(新編集版)〈14〉
世間一般においては、「教育問題」なるものが時折沸き起こることがある。そのような「問題」が取り沙汰されるようなときにはたいがいにして、「今の教育の一体どの部分がどのように問題なのか?」とか、「なぜそれがうまく機能していないのか?」とか、「いかにすれば教育はうまく機能するのか?」とか、「よい教育とはいかなるものか?」とかいったように、もっぱら教育の「いかに・どうすれば」という部分が喧しく議論されてい
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教育の「問題」とは、あらかじめその問いの解が設定された上で問題化されていると考えることができる。ゆえに一般に何らかの「教育問題」が考えられるとき、そのような問題を生じさせる「構造」が実は制度そのものによる作用であるということを、それこそ「構造的に見落とされている」あるいは「意図的に見逃されている」のである。だから、たとえいくらその問題点に即して現行の教育内容を見直し、より望ましい教育に作り換えた
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