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本能寺の変1582 第180話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第180話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 

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天正二年1574、一月。

光秀は、岐阜にいた。

 正月は、静かに明けた。
 織田家の重臣は、皆、岐阜城に集まった。
 
  正月朔日、京都隣国の面々等、在岐阜にて、御出仕あり。
  各(おのおの)、三献にて、召し出だしの御酒あり。
 

朝倉義景・浅井下野・浅井備前、三人が首、御肴の事。

 薄濃(はくだみ)*の首、三つ。
 
  他国衆退出の已後、御馬廻ばかりにて、
  古今に参り及ばざる珍奇の御肴出で候て、又、御酒あり。

  去年、北国にて討ちとらせられ候、 

   一、朝倉左京大夫義景 首(こうべ)、
   一、浅井下野、首、
   一、浅井備前、首。
 
  已(い)上三ツ、薄濃にして、
  公卿(=盆、台、折敷)に居(す)ゑ置き、御肴(さかな)に出だされ候て、
  御酒宴。
  各(おのおの) 御謡・御遊興。
  千々万々。
  目出たく、御存分に任せられ、御悦びなり。 
                          (『信長公記』)
 

   *薄濃 漆塗りにしたものに金泥などで彩色したもの。

越前で、一向一揆が蜂起した。

前波吉継が殺害された。

 同十九日。
 織田家中に、激震が走った。
 守護代前波吉継が討ち取られた。  

  正月十九日、越前の前波播磨(吉継)、
  国中の諸侍どもとして、生害させ侯由、申し来たり侯。

越前は、一揆持ちの国になった。

 信長の越前作戦は、頓挫した。
 否、全ては、「元の木阿弥」。
 再び、振り出しに戻った。
 一向一揆、恐るべし。
 侮るなかれ、・・・・・。
 
  子細は、越前の大国守護代として居(す)ゑ置かれ侯ところに、
  栄花栄耀を誇り、恣(ほしいまま)に相働き、
  傍輩に対し、万事に付きて、無礼至極に沙汰致すの条、
  諸侍謀反を企て、生害させ、
  其の上、国端境目に要害を構へ、番手の人数を置き、
  其の後は、越前一揆持ちに罷りなるの由に侯。

信長は、敦賀に軍勢を派した。

  信長は、即座に、反応した。
 秀吉らの軍勢を敦賀へ派す。
 なれど、国中へは入れず。
 否、そうすることが出来なかった。 

  羽柴筑前守・武藤宗右衛門・丹羽五郎左衛門・不破河内守・同彦三・
  丸毛兵庫・同三郎兵衛・若州衆、敦賀まで御人数差し遣はさる。

                          (『信長公記』) 

信長は、面目を失った。

 信長は、誇り高き男。
 これでは、面目、丸潰れである。
 なれど、身動き取れず、・・・・・。

信長は、敵対勢力に包囲された。

 東、武田。
 西、本願寺。
 南、長島一向一揆。
 北、越前一向一揆。

 その動きが活発化していた。 

 同年一月末、武田軍、東美濃に進出。
 〃 二月、信長、東美濃に出陣。
 〃 三月、信長、上洛。
 〃 〃 、信長、奈良に入る。
 〃 〃 、信長、蘭著待を切り取る。
 〃 四月、信長、大坂へ軍勢を派す。
 〃 〃 、信長、河内へ軍勢を派す。
 〃 六月、武田勝頼、徳川方の高天神城を包囲。
 〃 〃 、信長、出陣。
 〃 〃 、高天神城が武田の手に落ちた。
 〃 〃 、信長の救援は、間に合わなかった。
      その見返りとして、家康に黄金革袋二つを与えた。

 これらについては、後述する。



 ⇒ 次へつづく 第181話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 


 






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