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本能寺の変1582 第146話 15信長の台頭 9光秀と長宗我部元親 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第146話 15信長の台頭 8三好の衰退 

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長宗我部元親が石谷光政の女と婚姻した。

 同、永禄六年1563。
 土佐。
 元親、二十五歳の夏。
 幕府奉公衆、石谷光政の娘を娶る。

  【参照】8光秀の苦悩 6守るべき者 50    
  【参照】12光秀と斎藤道三 2光秀と長宗我部元親 82   
  【参照】15信長の台頭 4光秀と長宗我部元親 132   

  【参考までに】    
    信長 天文三年(1534)生れ
    秀吉 天文六年(1537)生れ
    元親 天文八年(1539)生れ

  元親、縁辺の事

  永禄六年、夏、
  元親、家老の面々を召し集めて、
  我、既に、廿五歳に及ぶなり、
  妻女を求めばやと思ふは、いかに、と、宣(のたま)へば、

  家老ども、承り、
  是れは、目出度き御思慮、御家門繁昌・下民安泰の候、
  何れをか迎へさせ給はんや、と、申しければ、

  元親、美濃国、稲葉伊予守*が孫、斎藤豊後守政吉*が息女*を
  娶らばや、と、宣へば、

  家臣ども、驚きたる風情にて、暫く、閉口のところに、
  中島大和、謹んで申しけるは、
  遠国よりの御縁辺、深き御了簡にて候か、
  東国は、申すに及ばず、
  阿・讃・予(阿波・讃岐・伊予)の三国に、
  大名城主、数輩、御入(=居)り候、
  是れをこそ、御縁者になされ、
  自然(=万一)の時は、御(=味)方に頼ませ給ひ候らふべし、
                          (「土佐物語」)

   *稲葉伊予守   稲葉良通(一鉄)。
   
*斎藤豊後守政吉 石谷頼辰・斎藤利三の父は、伊豆守利賢と
            される。
   *息女      元親の妻は、石谷光政の娘である。

元親には、理由があった。

 石谷光政は、幕府の重臣。
 同氏は、明智氏同様、土岐氏の一族である。
 土岐氏は、美濃源氏の嫡流家。
 すなわち、武門の家。
 そのことを言っているのだろう。
   
  【参照】8光秀の苦悩 6守るべき者 50    
  【参照】9光秀という男 3土岐氏 57   
  【参照】15信長の台頭 8三好の衰退 143   

  近国を閣(さしおか)れ、遠境御縁組は、了(さだめ)て、
  御容色の御事など、聞(きこ)し召し及ばせ給ひての上に候か。
  戦国の時節と申し、遠国とい(言)ひ、
  世上の人口をも、御思惟候へかし、と、申しければ、

  元親、打ち笑ひ、申すところ、理(ことわり)なり、
  さり乍(なが)ら、天神地祇にかけて、
  全く、彼の息女が容色の沙汰を聞き及びたるにあらず、
  色は、兎もあれ、角もあれ、
  祖父伊予守・父豊後守、武名、香ばしき士(さむらい)なれば、
  彼の腹に出生の子、父祖にあやかる事あらんと思ふ計(ばか)りなり、
  昔、和田の義盛、
  (中略)
  唯(ただ)、父祖の武名を慕ふなれば、
  遠国をも、強(こわ)に厭ふべきにあらず、と、宣へば、

  何れも、大きく感歎して、天晴(あっぱれ)、武将の器なり、
  と、上下、挙(こぞ)って称しける、

元親は、斎藤利三の義弟になった。

 石谷頼辰と斎藤利三は、血を分けた実の兄弟。
 兄の頼辰が石谷光政の養子に入り、同氏の家督を引き継ぎ。
 弟の利三が斎藤氏に残って、その名跡を継いだ。
 したがって、元親は、石谷・斎藤、両氏の親戚になった。 

  斯くて、吉田左衛門佐を使者として、濃州へ遣はしければ、
  豊後守も、伊予守も、大いに悦び、許諾あり、
  頓(やが)て、吉日を選び婚礼をなし給ふ、

斎藤利三は、後に、光秀の家臣となる。

 このことが、光秀と元親を結びつけることになる。

  政吉、子、三人あり、
  長子は、石谷兵部少輔、
  其の次、斎藤内蔵助政治、後に、利三と改む、
  三は、女子、元親の北の方、是れなり、
                          (「土佐物語」)


 ⇒ 次へつづく 第147話 15信長の台頭 9光秀と長宗我部元親  



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