本能寺の変1582 第145話 15信長の台頭 8三好の衰退 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第145話 15信長の台頭 8三好の衰退
三好義興が病死した。
同年、八月。
突然、だった。
黄疸、と云う。
八月廿五日、長慶の一子、筑前守義興、芥川城において、御早世あり、
黄疸と云ふ病、起こりて、忽(たちま)ちかくれ給ひけり、
父の匠作(修理の唐名=長慶)は、申すに及ばず、
公方も、御愁傷かぎりなし、
松永のわざとも申しける。
その死に、疑念が残った。
「毒殺」、・・・・・。
「松永久秀」、・・・・・。
真偽の程は、わからない。
如何なる故ありてにや、
近く召し使ふ輩の中より、食物に毒を入れて奉り、かく逝去あり、
と、後に聞こえけり、
また、松永のわざとも申しける、
三好氏に不幸がつづく。
これで、三人目。
永禄四年、十河一存。
永禄五年、三好実休。
永禄六年、嫡男義興。
【参照】15信長の台頭 8三好の衰退 139
【参照】15信長の台頭 8三好の衰退 140
長慶は、生きる希望を失った。
長慶に、子は、義興ただ一人。
義興が全てだった。
その義興を失った。
偶然なのか。
はたまた、・・・・・。
正に、急転直下。
盛りの天辺(てっぺん)から、奈落の底へ。
長慶は、義継を後継者に定めた。
三好義継は、十河一存の子である。
天文十八年(1549)の生れ。
この年、十五歳。
長慶は、伯父にあたる。
その養子となり、義興没後の宗家を承継した。
長慶は、家督相続の子なくして、
十川一存の子息熊王と申しけるを養子として、家督を定めらるゝ、
元服の後に、三好左京大夫義次と申すは、是れなり、
松永久秀と三好三人衆。
この両者が三好宗家の実力者であった。
三好氏は、次の二系統に分かれていた。
・三好宗家 =兄、長慶の家
・阿波三好家=弟、実休の家 →長治
この両家、ともに、その将来には、暗雲が立ち込めていた。
やがて、権力闘争が始まる。
老獪な久秀と三人衆である。
若い義継にとって、彼らを制御するのは、きわめて難しいことだった。
やがて、内紛。
権力闘争の渦中へ。
義継は、この両者に翻弄される。
三好家の政道、専ら、松永と三人衆のままなり、
勅命をも恐れず、
武命をも用いず、
雅意(=自分勝手)にまかせけり、
(「足利季世記」)
三好氏は、衰亡へ向かって歩みを速めた。
天正元年1573。
三好義継、自害。
その十年前の姿がここにある。
これらについては、後述する。
⇒ 次へつづく 第146話 15信長の台頭 9光秀と長宗我部元親
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