本能寺の変1582 第144話 15信長の台頭 8三好の衰退 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第144話 15信長の台頭 8三好の衰退
信長は、小牧山に築城を開始した。
同永禄六年、春。
信長は、小牧山に着目した。
清洲の北東、二里半(≒10km)。
犬山への、ちょうど中間地点。
標高85mほどの地。
ここに、城を築き始めた。
狙いは、犬山城。
小牧山から、さらに、北北東へ、二里半。
間には、遮るものが何もない。
北側を、木曽川が流れていた。
川を越えれば、そこは美濃。
城主は、織田信清。
信長の従兄弟である。
叔父信康の子。
妻は、信秀の娘。
したがって、義兄弟でもあった。
この頃は、信長を離れ、敵対していた。
そして、美濃を東から攻める。
木曽川は、美濃・尾張の国境(くにざかい)。
対岸には、鵜沼・猿啄城があった。
何れも、斎藤方である。
竜興の稲葉山は、その西方、わずか三里半(≒15km)。
近い。
小牧築城は、その、手始めだった。
信長は、於久地を攻めた。
同年六月。
小牧城の真北一里(4km)ほどにある城である。
城主は、犬山の家老、中島豊後守。
お久地惣構へ破るゝの事
一、六月下旬、於久地(小口)*へ御手遣ひ。
御小姓衆、先懸にて、惣構へをもみ破り、推し入りて、
散々に、数刻相戦ふ。
十人計り、手負ひこれあり。
上総介殿、御若衆にまいられ侯岩室長門、
かうかみ(こめかみ)をつかれて、討死なり。
隠れなき器用の仁(才能のある人)なり。
信長、御惜しみ、大方ならず。
*於久地 愛知県丹羽郡大口町小口
信長は、清洲城から小牧山城に移った。
同年、夏。
気忙(きぜわ)しい信長のこと。
築城工事は、急ピッチで進められた。
おそらく、年内に、完成したものと思う。
となれば、移転。
清洲から、小牧山へ。
そのことについて、面白い逸話がある。
二宮山御こしあるべぎの事
一、上総介信長、奇特なる御巧みこれあり。
清洲と云ふ所は、国中真中にて、富貴の地なり。
或る時、御内衆、悉(ことごと)く召し列れられ、
山中高山、二の宮山(本宮山)*へ御あがりなされ、
此の山にて、御要害仰せ付けられ侯はんと、
上意候て、
皆々、家宅引き越し侯へと御諚侯て、
爰(ここ)の嶺(みね)、かしこの谷合を、
誰々こしらへ侯へと、
御屋敷下され、其の日御帰り。
又、急ぎ御出であつて、弥(いよいよ)、右の趣御諚侯。
此の山中へ、清洲の家宅引き越すべき事、難儀の仕合せなりと、
上下迷惑、大形(おおかた)ならず。
これが、信長の家中操縦法。
引っ越しは、何事もなく終わった。
左侯ところ、後に、小牧山へ御越し侯はんと仰せ出だされ侯。
小真木山へは、ふもとまで川(五条川)つゞきにて、
資財・雑具取り侯に自由の地にて侯なり。
どう(口+童)と悦んで罷り越し侯ひしなり。
是れも、始めより仰せ出だされ候はゞ、
爰(ここ)も、迷惑、同前たるべし。
*二の宮山(本宮山) 愛知県犬山市宮山
信長は、戦わずして於久地城を手にいれた。
同年、夏の終わり頃。
工事は、着々と進んでいる。
於久地城の豊後守は、それを遠目で見ていた。
無言の威圧。
そして、調略の手が伸びた。
小真木山の並びに、御敵城お久地と申し侯て、
廿町(≒2km)計り隔てこれあり。
御要害、ひた々々と出来(しゅったい)候を、見申し侯て、
豊後守は、身の危険を感じた。
城を捨て、逃亡。
犬山城へ。
(信長の)御城下の事に侯へば、拘へ難く存知、
渡し進上侯て、御敵城犬山へ、一城に楯籠もり侯なり。
(『信長公記』)
稲葉山の竜興は、動かない。
犬山、鵜(う)沼・猿啄(さるばみ)。
心中、穏やかならず。
近江の六角氏に、観音寺騒動が起きた。
同年、十月。
六角氏と国人衆との対立激化。
内紛である。
この事件で、同氏の求心力は、大きく低下した。
これにより、浅井氏が勢力を拡大する。
⇒ 次へつづく 第145話 15信長の台頭 8三好の衰退
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