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本能寺の変1582 目次小 上総介信長 7弟、信勝の謀叛 220~224 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。日本史、信長公記、斎藤道三、足利義昭、武田信玄、上杉謙信。『光秀記』

目次小 上総介信長 7弟、信勝の謀叛 220~224 

220 信勝に、謀叛の噂が立った。           『信長公記』
   信長は、那古野城に出向いた。          『信長公記』
   林兄弟は、信長の殺害を企てた。         『信長公記』
   林兄弟は、叛旗を翻した。            『信長公記』221 信勝の謀叛が明らかになった。          『信長公記』
   信長は、名塚に砦を築いた。           『信長公記』
   信勝方は、千七百余。              『信長公記』
   信長の御人数、七百には過ぐべからず。      『信長公記』222 稲生の合戦。                  『信長公記』
   敵は、信長の気迫に圧倒された。         『信長公記』223 信長は、自らの手で林美作を討ち取った。     『信長公記』
   信長は、勝った。                『信長公記』
   翌日、首実検。                 『信長公記』224 信長は、那古野城と末盛城の城下を焼払った。   『信長公記』
   信長は、信勝を赦した。             『信長公記』
   信長は、林秀貞を赦免した。           『信長公記』
   信長は、執念深い。
 

目次  1~317
目次大 1~317

目次大 上総介信長 177~228 
目次中 上総介信長 177~228
目次小 上総介信長 177~228


信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。

          ⇒ 次回へつづく 

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