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本能寺の変 1582 上総介信長 7 224 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 7 弟、信勝の謀叛 

信長は、那古野城と末盛城の城下を焼払った。

 信長は、この勝利を国中に示した。
 当主は、ただ一人。
 己、である。
 
  是れより後は、那古野・末盛、籠城なり。
  此の両城の間へ、節々(たびたび)、推し入り、町口まで焼き払ひ、
  御手遣ひなり。

信長は、信勝を赦した。

 母、土田氏は、信勝とともに、末盛城にいた。
 その母の詫び言である。
 そのことも、あった。
 だが、信長とて、人の子。
 当然、「骨肉の情」はあっただろう。
 否、あった。 
 
  信長の御袋様、末盛の城に、御舎弟勘十郎殿と御一所に、
  御座侯に依つて、
  村井長門(貞勝)・島田所之助(秀満)両人を、清洲より、
  末盛へ召寄せられ、

  御袋様の御使として、色々様々、御詫言にて、
  御赦免なされ、

  勘十郎殿・柴田権六・津々木蔵人、墨衣にて、
  御袋様御同道にて、
  清洲において、御礼これあり。

信長は、林秀貞を赦免した。

 太田牛一は、処罰されて然るべし、と言っている。
 大罪である。
 ところが、信長は、これも赦した。
 何よりも、家中の統率を優先したのだろう。
 この頃は、まだ、寛容だった。
 
  林佐渡守事、
  是れ又、召し出だされまじき事に候へども、
  先年、御腹めさせ候刻(殺害しようとしたこと)を、
  佐渡、覚悟を以て申し延べ侯。
  其の子細をおぼしめし出だされ、
  今度、御宥免なされ侯なり。
                          (『信長公記』)
 

信長は、執念深い。

 しかし、信長は、この時のこと忘れなかった。
 それは、二十四年後にやって来る。
 天正八年(1580)、八月。
 佐久間信盛の一件。
 【参照】20
 その事件は、これに関連して、起きる。

 これらについては、後述する。

          ⇒ 次回へつづく



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