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本能寺の変 1582 上総介信長 7 223 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 7 弟、信勝の謀叛 

信長は、自らの手で林美作を討ち取った。

 「林美作をつき臥せ、頸とらせられ」
 これで、勝敗が決まった。
 
  信長は、南へ向つて、林美作口へかかゝり給うところに、
  黒田半平と林美作、数剋切り合ひ、半平、左の手を打ち落され、
  互に、息を継ぎ居り申し侯ところへ、
  上総介信長、美作にかゝり合ひ給ふ。
 
  其の時、織田勝左衛門御小人のぐちう杉若、働きよく侯に依つて、
  後に、杉左衛門になされ侯。
 
  信長、林美作をつき臥せ、頸とらせられ、御無念を散ぜられ、

信長は、勝った。

 柴田・林両勢を追い払った。

  両共、以て追ひ崩し、
  さて、手々(てんで)に馬を引き寄せ々々々々、打ち乗りて、
  追付(おっつけ)々々、頸を取り来たり、
  其の日、清洲へ御帰陣。
 

翌日、首実検。

 大勝利であった。
 とは言え、元々、同じ家中。
 しかも、身内どうしの戦いである。
 「無益」
 そう、思ったのだろう。
 深追いは、せず。
 これ以上の損耗を避けた。
 
  翌日、頸御実検候へば、
  林美作頸は、織田上総介信長討ちとり給ふ。
  鎌田助丞、津田左馬丞討ちとる。
  富野左京進、高畠三右衛門討ちとる。
  山口又次郎、木全(きまた)六郎三郎討ちとる。
  橋本十蔵、佐久間大学討ちとる。
  角田新五、松浦亀介討ちとる。
  大脇虎蔵・かうべ平四郎、初めとして、歴々頸数四百五十余あり。
                          (『信長公記』)
 


          ⇒ 次回へつづく



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