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本能寺の変 1582 上総介信長 7 220 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 7 弟、信勝の謀叛 

信勝に、謀叛の噂が立った。

 弘治二年(1556)、五月。
 不穏な「噂」が流れた。
 信長の筆頭家老、林秀貞が信勝を擁立すると云う。
 となれば、「謀叛」。
 「火のない所に煙は立たず」、である。 

  一、さる程に、信長公の一おとな(長)林佐渡守・其の弟林美作守・
    柴田権六(勝家)、申し合せ、
    三人として、勘十郎(信勝)殿を守り立て侯はんとて、
    既に、逆心に及ぶの由、風説執々(とりどり=いろいろ)なり。

信長は、那古野城に出向いた。

 城代は、林秀貞。
 信長が、それを知らぬわけはなかろう。
 
  信長公、何とおぼしめしたる事やらん、
  五月廿六日に、信長と安房殿(織田秀俊)と唯二人、
  清洲より、那古野の城、林佐渡所へ御出で侯。

林兄弟は、信長の殺害を企てた。

 林秀貞は、譜代の家臣。
 「三代相恩の主君」、とある。
 信長を見限った。

 しかし、これは成らず。
 
  能き仕合せにて侯間、御腹めさせ侯はんと、弟の美作守申し侯を、

  林佐渡守、余りに、おもはゆく(恥知らずなことと)存知侯歟、
  三代相恩の主君を、おめおめと爰にて手に懸け討ち申すべき事、
  天道おそろしく侯。
  とても、御迷惑に及ばるべきの間、
  今は、御腹めさせまじきと申し侯て、
  御命を助け、信長を帰し申し侯。

林兄弟は、叛旗を翻した。

 足下にも、火がついた。
 正に、「内憂外患」。
 危急存亡の秋(とき)。
 信長は、白刃の上を渡っていた。
 
  一両日過ぎ侯てより、御敵の色を立て、
  林与力のあらこの城、熱田と清洲の間をとり切り、御敵に成る。
  こめの(米野)ゝ城・大脇の城、清洲となご屋の間にあり。
  是れも、林与力にて候間、一味に御敵仕り候。
                          (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく



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