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本能寺の変1582 信長、死す 是非に及ばず 6 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長、死す 是非に及ばず 6 

信長は、弓を取った。

 程なくして、弦が切れた。
 押し寄せる敵。
 明智の兵、兵、兵。
 さながら、雲霞の如し。
 
  信長、初めには、御弓を取り合ひ、二、三つ遊ばし侯へば、
  何れも、時刻到来侯て、御弓の絃(つる)切れ、

次、槍。

 だが、負傷した。
 奥へと退く。
 「その時」が迫っていた。

  其の後、御鎗にて御戦ひなされ、
  御肘に鎗疵を被(こうむ)られ、引き退き、

女は、くるしからず。

 信長は、女たちを脱出させた。

  是れまで御そばに、女どもつきそひて居り申し侯を、
  女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、
  追ひ出させられ、
                      (『信長公記』)

 
家臣らは、懸命に堪(こら)えた。
 「上様の御ために」
 時間を稼ぐ。
 次第に、煙が立ち込めて。
 ・・・・・。
 ついに、「その時」がやって来た。
 
        ⇒ 次回へつづく  信長、死す 是非に及ばず 7


目 次
目次大

目次大 信長、死す 1~7 
目次中 信長、死す 1~7
目次小 信長、死す 1~7

信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。


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