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本能寺の変1582 第148話 15信長の台頭 10三好長慶の死 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第148話 15信長の台頭 10三好長慶の死 

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永禄七年1564

筒井順政、死去。

 同年、三月。
 順政は、順慶の叔父。
 後見人である。

  【参照】15信長の台頭 6三好の絶頂 136   

  十日、
  筒井順政、堺に於いて、先年、死去、
  来たる十九日、十七廻に相当たるとて、極楽坊に於いて、千部経、
  母より、これを執り行ふと云々、
               (「多聞院日記③」天正八年三月十日条)

筒井順慶、自立す。

 順慶、この年、十六歳。
 戦国の荒海に放り出された。
 最早、頼る者などいない。
 敵は、松永久秀。
 弱者は、消え去るのみ。

三好長慶が安宅冬康を殺害した。

 同年、五月。
 飯盛城にて。
 長慶、弟、安宅冬康を誘殺す。

松永弾正少弼の讒言により。

 ここにも、久秀の影がチラつく。

  永禄七年五月九日、松永弾正少弼の讒言により、
  三好長慶の舎弟、安宅摂津守冬康、
  逆心の聞こえありとて、飯盛城中にて誅せらる、

 
長慶は、精神的に病んでいたらしい。

  其の頃、長慶、病中にて、万事思慮なく、
  罪科の実否も未だ糺(ただ)さずして、踈忽(そこつ)に計りと給ひけり、
                         (「足利季世記」)
 

これで、四人目。

 三好長慶は、嫡男、そして、三人の弟たち、その全てを失ってしまった。 

 永禄四年、十河一存、病死。
 永禄五年、三好実休、戦死。
 永禄六年、嫡男義興、病死。
 永禄七年、安宅冬康、殺害。

  【参照】15信長の台頭 8三好の衰退 139   
  【参照】15信長の台頭 8三好の衰退 140   
  【参照】15信長の台頭 8三好の衰退 145   

 まるで、死神に取り憑かれたようである。
 残ったのは、長慶本人、ただ一人。
 三好氏は、崩壊寸前の状態に陥った。

信長と上杉謙信の交流が始まった。

 同年、六月。
 信長、越後の上杉謙信と親交を結ぶ。
 以下が、その初見文書である。
 この頃、信長は、まだまだ、格下だった。
 書状を見れば、それがわかる。

 謙信は、享禄三年1530の生れ。
 この年、三十五歳。
 信長の四つ上。
 度々、名を変えている。
 長尾景虎→上杉政虎→輝虎→不識庵謙信(元亀元年)。

 取次は、直江景綱。
 上杉景勝の側近、直江兼続は、その娘聟にあたる。 

  玉章到来、謹んで拝閲快然に候、
  抑(そもそ)も、近年、関東に在って(まで)御発向、
  数度、利を得られ、平均の上御帰国の由、珍重に存じ候、
  随って、直和(直江大和守景綱)より、別して、御懇切の条、
  示し給わられ候、
  本懐の至りに候、
  猶、追って音問を達すべく候間、具(つぶさ)に能(あた)わず候、
  此の旨、御披露仰ぐところに候、
  恐々敬白(けいびゃく)、

     六月九日
      直江大和守殿           信長(花押)
           (「杉原謙氏所蔵文書」「織田信長文書の研究」)


 ⇒ 次へつづく 第149話 15信長の台頭 10三好長慶の死 

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