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本能寺の変1582 第149話 15信長の台頭 10三好長慶の死 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第149話 15信長の台頭 10三好長慶の死 

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長慶、没す。

 同年、七月四日。
 従四位下修理大夫、三好長慶。
 河内飯盛山にて、病没。
 享年、四十三。

 安宅冬康は、何故、殺されねばなかったのか・・・・・。

  然れども、
  摂津守、少しも罪なくて、讒死に逢ひ給ふと、たしかに聞こえければ、

 一時代を築いた人物。
 これが、その最期である。
 「狂い死」、と云う。
 哀れなものである。

  長慶、聞き、後悔、丹府(たんぷ=心)をなやましけれども、
  可返ならねば、力なし、
  されども、其の事を深く悔やみて、煩ひ重くなりて、
  七月廿四日(四日の誤り)、四十三歳にて、空しく成り給ふ、
                         (「足利季世記」)

斯くして、三好長慶の時代は終わった。

 三好宗家は、養子の義継が跡目を継ぐ。
 義継、この年、十六歳。
 筒井順慶と同年齢である。 

  【参照】15信長の台頭 6三好の絶頂 136   
  【参照】15信長の台頭 8三好の衰退 145   

そして、信長の時代へ。

信長は、犬山城を攻略した。

 この頃、だろう。
 永禄七年~八年。
 年次、定かならず。

 犬山の家老二人が寝返った。
 程なく、城は落ちた。

  一、或る時、犬山の家老、
    和田新介、是れは黒田の城主なり。
    中島豊後守、是れはお久地の城主なり。

    此の両人、御忠節として、丹羽五郎左衛門を以て申し上げ、
    引き入れ、生(はだ)か城になし、四方鹿垣(ししがき)二重三重、
    丈夫に結ひまはし、犬山取り籠め、
    丹羽五郎左衛門、警固にて侯なり。
                          (『信長公記』)

信長は、謙信へ近況を伝えた。

 同じ頃。
 両者の交流は、順調に推移していた。
 信長から、謙信へ。
 書状には、八月、美濃へ攻め入った、とある。
 また、犬山落城のことが記されている。
 使者は、佐々成政。

   其の後、音問(音信)、絶え候、
   本意の外に候、
   仍(よ)って、先月、濃州(美濃)に相働き、
   井口(稲葉山)近所に取り出で、城、所々に、申し付け候、

   然れば、犬山、落居せしめ候、
   其の刻(きざみ=時)、金山*落居候、
   其の外、数ヶ所、降参候条(くだり=~の件)、
   宥免せしめ候、
   其の上、勢州(伊勢)辺りまで、形(かた)の如く、申し付け候、

   直書を以って、申し候条、
   具(つぶさ)に、能はず候、
   恐々謹言、

     九月九日         信長
      直江大和守殿
           御宿所

    猶々、爾来、無音の旨趣(ししゅ=理由)、
    佐々、申し入るべく候、以上、
                          (「歴代古案」)

    *金山 金山城(岐阜県可児市兼山字古城山)。



 ⇒ 次へつづく 第150話 15信長の台頭 10三好長慶の死 


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