本能寺の変1582 第150話 15信長の台頭 10三好長慶の死 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第150話 15信長の台頭 10三好長慶の死
信長は、攻め口を変えた。
西から東へ。
これまでは、西美濃攻めに重点を置いていた。
信長は、東美濃に進出した。
それから間もなくのこと。
信長は、木曽川を越え、東美濃へ攻め入った。
先ずは、犬山の対岸、鵜沼・猿啄(さるばみ)。
一、飛騨川を打ち越し、美濃国へ御乱入。
御敵城、宇留摩(鵜沼)の城主大沢次郎左衛門(基康)、
ならびに、猿はみ(啄)の城主多治見とて、
両城は、飛騨(木曽)川へ付きて、
犬山の川向ひ、押し並べて、持ち続けこれあり。
信長は、木曽川の並び、伊木山(標高173m)に陣所を構えた。
鵜沼(標高89m)の下流半里(2km)ほど。
ここから、両城を威圧した。
十町十五町隔て、伊木山とて高山あり。
此の山へ取り上り、御要害丈夫にこしらへ、両城を見下し、
信長、御居陣侯ひしなり。
鵜沼城、これに堪え切れず。
降参。
うるまの城、ちかぢか(近々)と御在陣侯間、
越訴(おつそ)とも拘へ難く(とても維持できないと)存知、
渡、し進上候なり。
猿啄城、同じ。
一、猿ばみの城、飛騨川へ付きて、高山なり。
大ぼて山とて、猿ばみの上には、生茂りたる崱(かさ=高所)あり。
或る時、大ぼて山へ丹羽五郎左衛門先懸にて攻めのぼり、
御人数を上げられ、水の手を御取り侯て、上下より攻められ、
即時につ(詰)まり、降参、退散なり。
(『信長公記』)
フロイスが堺に到着した。
この年、永禄七年1564、十二月のこと。
フロイスが京に入った。
同二十九日。
入京。
「日本の新年の前日」
この年の12月は小の月である。
一五六三年七月六日(永禄六年六月十六日)、待望の日本に着き、
西彼杵(そのぎ)半島北端の横瀬浦に第一歩を印した。
時に三十一歳である。
彼は日本布教長コスメ・デ・トルレスから大いなる喜びをもって
迎えられたが、横瀬浦が破壊されたために、
十二月には平戸に近い孤島度島に避難した。
ここで十ヵ月、病魔と戦いながら、同僚フェルナンデス修道士から
難解な日本語、および日本の風習や宗教について学び、
一五六四年八月二十四日、平戸に入り、
口之津に転じた後、
同年十一月十日、平戸を出発、念願久しい京都へ旅立った。
入京したのは「日本の新年の前日」、すなわち一五六五年一月三十一日
(永禄七年十二月二十九日)のことである。
(『日本史』解題一ルイス・フロイス略伝)
【参照】4光秀の苦悩 1嫡男光慶 7
フロイスもまた、歴史の証人である。
⇒ 次へつづく 第151話 16光秀の雌伏時代 1光秀と越前
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