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『虫虫虫』


『虫虫虫』


生きているだけで疲れる。飯を食うのも疲れるし、風呂に入るのも疲れる。人に会うのも何だか疲れるので、なるべくひとりでいたい。それは今も昔もさほど変わらない。ああ、もう何もかもが嫌だなあ。日々の生活から逃げようかなあ。転職活動も疲れたなあ。どうせやりたくもない仕事をしながら、少ない手取りで細々と生活し、そのうち、たいして好きでもない異性と恋愛したり、挙句、ふられたりするために私は生まれてきたのかなあ。私の人生を包囲するあらゆるわずらわしさを放擲し、来週、私は出家します。いや、いっそのこと自死します。碧く静かな海に散骨してください。皆様、さようなら。
などと愚考しながらネットのアルバイト求人を閲覧していると、「昆虫の飼育」という仕事が目にとまった。一日三時間の週三、四勤務と書いてある。時給も悪くない。夏なので、「これはカブトムシ乃至クワガタムシの飼育だな…」と高を括った私は安易な気持ちでその求人先に電話をかけた。すると、聞こえづらいぼそぼそという喋り方で蓄音機から流れてくるような妙な声を出す男から、来週の木曜日の午後一時半にここへ来てくださいと伝えられた。そこは街中の歓楽街にあるたこ料理屋の前だった。


当日、私は履歴書しか入っていないビジネスバッグを持ち、着慣れないスーツ姿でたこ料理屋の前でかしこまっていると、待ち合わせ時間の午後一時半を過ぎてから男が悠然と現れて、「もしかして、お電話くれた成田さんですか?」と声をかけてきた。
男は実際に生で聞いても蓄音機から流れてくるような妙な声を発するので、私はいぶかしく思った。
男は痩せていて、顔が青白く、額から後頭部にかけて禿げあがっている。また、銀縁の分厚なレンズの眼鏡をかけており、首回りがだらしなく伸びたうる星やつらの白いTシャツ、安っぽいインディゴジーンズ、藍色のクロックスといういでたちだった。
年齢不詳の風変わりな男である。肌の質感から類推するに、おそらく三十前半だと思うが、四十だと言われればそう見えなくないし、二十代だと言われればそう見えなくもなかった。私は内心で狼狽して、電話をかけたことを早速後悔した。やっぱり帰ります、とその場で断りたくなった。しかし、男は、「私、門傳です。あっ、このたこ料理屋うまいですよ。たこ吸盤酢とたこの釜めしがオススメです」
と言うと続けて、「こっちです。ついてきてください」と言うので、私は門傳に黙ってついていった。


門傳はたこ料理屋のすぐ脇にある細い路地を背中を丸めてまっすぐ進むと、その先に広がるラブホテル街に入っていき、外壁の色がパープルの西洋の城みたいな建築様式のラブホテルのすぐ隣にある廃墟のような汚らしい五階建てのマンションに入った。
そのマンションは乳白色の外壁の大半がカビやコケの汚れで変色しており、部分的に蔦の這っている不潔な感じだった。すると、薄暗くて床がやたらとべとべとするエントランスで門傳がつと振り返り、
「ここは私のマンションなんですよ。ふふふ。亡くなった祖父から譲り受けて、今は私がオーナーとして管理をしています。まあ、これが私の本業でしてね。ふふふ。そういう感じで。うへへへっ」
などと何がおかしいのか薄気味悪い笑みを浮かべながら、足音を立てずに階段を上がっていく。


一階は十二室ほどの部屋があるが、あまりにも静かなので、人の住んでいる気配がしなかった。そして、一階から二階に上がる階段の壁が全体的にひび割れて塗装が剥がれていた。のみならず、踊り場の隅にはなぜだか便器が置いてあり、その上に大量のなめこが入った大きなタッパーが乗せてあった。
ぎょっとした私は、額と背中に不快な汗をかきながら、二階に上がると、手前にある「二〇一号室」は頑丈なキーボックスで施錠されていて、その隣の「二〇二号室」のドアには白地に黒文字で「門傳事務所」と書かれた表札のプレートが貼られていた。



二階は一階とは構造が異なり、なぜだか部屋数が少なくて、七部屋しかない。門傳は事務所として使っている「二〇二号室」に入るためにガチャガチャとカギを開けていると、奥の方の部屋から眼帯をして右目を隠している全身黒ずくめの服装の女が出てきた。女は新鮮な魚の刺身のパックを手のひらに乗せて、無表情でこちらにゆっくりと歩いてきたが、門傳にも私にも一瞥もくれずに一階へ降りていった。
また、「二〇二号室」の斜向かいの部屋からは、押し殺すような女のあえぎ声が漏れてくる。耳をそばだてると、「すごい。すごい。すごーい」という言葉がきれぎれに聞こえた。私は、「おいおいおい。こんな時間から何をやっているんだよ」と呆れていたら、門傳が涼しげな顔で、「さあ、どうぞ。成田さん。すこーし散らかってますけど」と言った。


部屋の中は窓がない古びた八畳間だった。事務所というよりは倉庫部屋のような雰囲気であり、壊れたベッドや破れた襖や埃を被った鹿の剥製などの調度品と備品であふれていて、めちゃくちゃ汚かった。
狭い玄関には何足もの靴が乱雑に散らばり、手前にはボロボロの合皮のソファと四角のガラステーブルが置いてある。また、玄関脇右手には台所があるのだが、錆びたヤカンや欠けた食器、食べかけのクロワッサンやカップラーメンなどが堆積しており、そこからなのか、部屋そのものがそうなのかはわからぬが、硫黄泉のような変な臭いが充満していて、吐き気を催すほど気分が悪くなった。窓がない部屋は非常に蒸し暑く、あごから滴る汗が手の甲や膝に落ちた。この部屋にエアコンはあるのだが、壊れているのか、門傳はエアコンをつけようとしない。
「えーと、成田さん。じゃあ、履歴書を拝見してもよろしいでしょうか?」
門傳にそう言われたので、本当は履歴書を出したくなかったが、仕方なく履歴書をガラステーブルに置くと、門傳は眼鏡の奥の目を細めて、ほう、とつぶやいた。何が、ほう、なのかはわからぬが、私は固唾を呑んでじっとしていると、
「これはこれは。以前、医療クリニックの方で清掃員の仕事もしていたのですね。なるほど。ふふふ。それはちょうどよかった。ええと、これはー、主に、トイレ掃除とか。そういうことですかね?」
「いえ、トイレ掃除だけではなく、床の清掃などもやっていましたし、窓ガラス拭きも…」
「そうですかあ。それならば、なお良しです。助かります。あと、虫は平気ですか?」
「ええ、大方大丈夫だとは思いますが…」
どうせカブトムシ乃至クワガタムシのことだろうと高を括っていた私はそう言って首肯すると、門傳は立ち上がり、「ここでちょっとだけ待っていてくださいね」と言い、部屋を出ていった。しかも、入口のドアを開放させていく。廊下に漏れている女の「すごい。すごーい」と言うあえぎ声が聞こえた。



今のうちに履歴書を持って逃げようかな、と思ったが、私が逡巡している間に門傳が戻ってきて、抱えているそれなりの大きさの水槽をガラステーブルの上にドンと置いた。その中に入っていたものはカブトムシでもクワガタムシでもなくて、コオロギだった。しかも、二百匹くらいのコオロギがうじゃうじゃと蠢いているので、私は驚愕した。すると、
「成田さん、どうですか?エンマコオロギです。こいつら、ずいぶんと良い声で鳴くでしょう?」
門傳はそう言うと、目を輝かせて、水槽の中に手を入れて、エンマコオロギを手のひらで転がした。
そのとき、どこからともなくやってきた蠅が俊敏な動きで私たちの頭上を旋回していた。私は唖然としたが、「これのお世話みたいな感じでしょうか?」と問うと、門傳は当然といった顔をして、「そうです。かわいいでしょう。ではー、次は少し刺激的なやつを持ってきます」と言うとその水槽を持ってふたたび席を外し、すぐに戻ってきた。さっきと似たような水槽を持っている。しかし、中にいるのはエンマコオロギではなく、五百匹くらいのゴキブリだったのである。体長が三センチから四センチくらいの黒褐色と茶褐色の小判みたいな体型のゴキブリがびっしりと密集しており、彼らはカサカサという静かな物音を立てながら、木片を這い、段ボールや紙製の卵パックに隠れたりしていた。やはり、その躯体が気色悪いというか、頭部から伸びる二本の触角が常にどこかにつんつんと当たる感じが不快であり、水槽から漂う人糞みたいな悪臭に耐えかねた。



それらを目の当たりにすると、急に視界が白々しい閃光に包まれたので、おかしいなと思ったら眩暈を起こしていた。私は白目になり、泡を吹きそうになっていたのだ。しかし、法隆寺の羅漢像みたいなポーズで硬直している私に門傳は取りつく島もなく、
「成田さんにはこいつらの世話をしていただきたいのです。この階の他の部屋にこういう虫が入ったケースがいっぱいあります。その部屋のカギを預けるので、こいつらに餌をやったり、時々、水槽の中を掃除してください。まあー、あとは、それだけでは時間が余ると想定しますので、マンション内の清掃もしていただけると助かります。通路の掃き掃除やゴミ拾いなどをしていただいて。服装は自由です。どんな服装でも構いませんが、汚れてもいいような服装でお願いしますね。私、度々、出張があって、ここにいないことが多いので、そのときは成田さんに色々とおまかせすることになると思いますので…」
そう言うと、私の履歴書をしげしげと見ながら、「いやあ、助かるなあ。」とつぶやいた。



私は腹の中で、「助かるなあじゃないんだよ。こんな仕事をやるわけねーだろ。この悪臭を嗅いでいるだけで脳が腐りそうになる。んで、そもそもこの虫は何のために飼育されているわけ?あと、出張って何のだよ?ここのマンション管理がてめーの本業なんじゃねーのかい?というか、これは自分が採用される流れになってないかい?」と憂慮したが、「すみません。辞退します」とは言えなかった。なぜなら、それを言った途端に門傳の目色が変わり、気魄に満ちた態度でガラステーブルを足蹴りしてから、「てめー、このやろう。今更やらねーとか言ったら半殺しにすっから。あほんだら!」とか言われかねないと思ったからだ。それほど門傳の私を見るまなざしが奇怪だったのである。その最中にも水槽の中がカサカサと音を立てており、神経がたまらない。
私は急激なストレスから胃がきりきりと痛み出し、ゴホゴホと咳をして体調不良を訴えようとしたら、
「あのー、成田さん。今日はわけあってですね、虫がいるその部屋をお見せすることはできないので、初出勤のときに色々と説明しますね。うへへへっ。すみません。では、何かご質問はありますか?」
と言うので、私はここでこんなアルバイトをする気は毛頭ないのだが、何となくその場の流れで、
「勤務時間や勤務日はどうなるんでしょうか?たとえば、曜日ですとか…」
と問うてみると、門傳はなぜだか、あはははっ、と愉快に笑いながら、
「出勤時間は成田さんの好きな時間でかまいませんよ。午前中に来てもいいし、今日みたいに午後から来てもらってもかまいません。まあ、夕方だとさすがに遅いから、その前でお願いしますね。あと、勤務日も特に決めていません。何曜日でもいいです。成田さんの都合の良い日に週三、四回来ていただければいいので。たとえば、今日は乗り気じゃないなあとか思ったらその日は来なくてもかまいません。雨が降ったとか、用事ができたとか。あと、タイムカードがないので出勤日と労働時間は自己申告です。都度、私にメールをしてください。私、出張があるので、なかなかお会いできないと思うので」
などと雇用主とは思えないあやふやな発言ばかりするので、呆気に取られた私は閉口し、適当に首肯しながら、「こいつはダメだ。今すぐに断ろう。へたに採用なんかされたら大変なことになりそうだ。というか、早くここを出て帰りたい。この部屋の空気を吸っているだけで背骨が歪んで気が狂いそうになる。うがいがしたい。太陽の光を浴びたい。神社に厄払いに行きたい気持ちだ。あと、さっきからてめーが言っている出張って何の出張だよ。いい加減に法螺を吹くのはやめなさい。さすがにキレるぞ!」
と思いながら門傳の顔を見ると、水槽の中をのぞいている門傳は黄ばんだ不揃いな歯を突き出して、
「では、成田さん。採用の合否は来週までに連絡しますから。いかんせん、成田さんの他にも複数名の応募がありますので…」などと生真面目な顔で言うので、はっとした私は、わめき散らしながら目の前のゴキブリの水槽を足蹴りして、部屋中にゴキブリたちを解放してやろうかと思ったが、そんな野蛮な行為は社会人としてみっともないことなので、こみあげてくる苛立ちを我慢して、舌を震わせていると、
「とりあえず、現時点で成田さんが一番良さそうな人材なので、きっと採用になるでしょう。安心してもらって大丈夫です。これから私たち、二人三脚でやっていきましょう。よろしくお願いします」
そう言うと、門傳は髭の生えていないつるんとしたあごを撫でた。そして、握手を求めてきた。私はさっきエンマコオロギを触っていた門傳と握手をしたくなかったが、仕方なく握手をすると、門傳は合皮のソファから立ち上がり、清涼な風を浴びたような爽やかな笑顔で、「そこまでお見送りします」と言った。部屋を出ると、門傳は、「ではここで。お疲れさまでした」と言って、ドアをバタンと閉めた。
「そこまでお見送りしますって、ふつうはマンションのエントランスまで見送るのが筋だろうがっ」
と私は苛立ちながら、通路にぽつねんと立っていると、女のあえぎ声が漏れていた例の部屋から、シャンシャンシャンという三味線の音がしてくるので、私は、「気が狂っとんな、あの部屋の住人は…」と思い、怖くなったので、駆け足で階段を降りた。


階段下でさっきの眼帯の女に会った。女は手ぶらだった。間近で見ると、女は思いのほか若くて二十歳くらいだった。真っ白な地肌がのぞく髪の分け目の乱れを気にしながらタバコを吸っており、蛭のような色に膨れた唇の隙間から煙を吐き出すと私を瞥見して、「こっち見んな。殺すぞ」と言った。私は逃げるようにマンションを出た。強烈な日射しに打たれた。明るい光がまぶしくて、すぐに目を開けることができなかった。私の全身が汗で夥しく濡れている。手の甲に縞蚊がとまっていた。手を叩いた。
目の前に広がるラブホテル街が蜃気楼のようにおぼろげに見えた。そのとき、警察官三人がマンションへ入っていった。何かトラブルでもあったのか。


たこ料理屋に戻ると、店の前に一台の自動車が停まっていた。その自動車のフロントグリルのメッキに顔を映した園児の女の子二人が、互いの間延びしたような滑稽な顔を見ながら、けらけらと無邪気に笑っていた。そこに、顔がシミだらけのだらしなく太ったおばさんに連れられた土器色の雑種犬が通りかかった。毛並みが悪いぼさぼさの犬は、みずみずしい鼻先を私の足元へ近づけて匂いを嗅ぎ出した。私は、くんくんしている犬の頭を撫でながら、「さっきの仕事が不採用になればいいな」と思っていた。



          〜了〜




愚かな駄文を最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。
大変感謝申し上げます。

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