見出し画像

考える葦

子どもが学業でよい成績をとった時などに、生まれもった才覚があるという方向性でほめる親は、少なくないと思う。賢い子だと言うぐらいでも、それに当てはまるのだから。

以下は、日本以外で行われた研究なのだが。

対象は小学校高学年の子どもたち。

a)ひんぱんに才能をほめられてきた子たち
b)ひんぱんに努力をほめられてきた子たち 

まだ習っていない問題を与えると、彼ら彼女らは顕著な違いを見せた。

a は、問題を解けなかったことに悲観的な感情を示し。b は、解き方を知りたいといった前向きな反応を示したのだ。

より年齢の低い子どもたちにも、同様の結果が見られた。

a は、自分の能力を示せる簡単なパズルを選び「間違えない自分」をアピールした。b は a のグループに対して、どうして何度も同じパズルをしたがるのかと困惑した。

幼少期にすでに。a と b で「成功」の定義が異なっていることが見受けられる。

さらに。小学生のグループに、年齢に関係なく到底解けないほどの難問を与えてみると。

大人にもできないのではないかーーという反応を示す子が大半だった中(一見して、なんとなく感じるのだろう)、a にだけ、自分のあたまが悪いからだととらえる子がいた。

自意識過剰に近い状態になっていることが推測される。


1つ2つの研究結果しかあげていないが。どうだろうか。かなり腑に落ちる感じがあるのではないか。自分で考えてみても、そうなるなという気がするのではないか。

そう。大人でも、同じ感覚がわかるのだ。もう子どもに話を限定するのはやめる。

これは、この世に「天才」が存在しないという話ではない。いくら努力したところでアインシュタインにはなれない、それなら意味がない。などと思う人はいないだろう。

いたら申し訳ない。私が謝るよ。人類史上最も天才をぬりかえる気か。……嫌いじゃない。笑

私に特別な才能はない。情熱的に好奇心があるだけ。
本人がそう言っているのだから、そうなんだよ。

ちょっと『スラムダンク』を例に見てみよう。

おおまかに言って、自分は変わることができるという信念。これが人に成長をもたらす。

「選ばれるのはどうせイケメンなんだろう」などと言う人は、見えていない。懸命にがんばる主人公を見ても、ヒロインがその姿を全くいいと思っていない場合だけだ。そんな理屈が通るのは。

そんな世界はたしかにクソだ。声を大にして、クソが!!と叫ぶといい。

晴子さんが10代の女の子らしく、理想の王子さま(流川くんもすさまじい努力家だ)に恋をしているのは、受け入れられても。そんな内容だったら、人々はこの作品に感動していないだろう。

この適度なはげまし。そっと背中を押すの好例だ。
自発行動を相手にうながせる、素敵な女性だ。

半端な願望をもつ者は、どこへ行ってもいいと言われても、灰色の標識しか見えてこないらしい。

前段で書いた b タイプのキャラクターだ。
血のにじむ努力をした者さえ、報われない時がある。

挑戦を好み。高い忍耐力をもち。批判から学び。他者の成功を喜ばしく思う。

こういった性質は、努力は実を結ぶことが多いと知っている/体が覚えこんでいることから生まれてくるものだ。

努力は実を結ばないという概念や感覚が心や体に根づくと。挑戦をさけ。あきらめが早く。有用な指摘のフィード・バックを無視し。他人の成功を脅威に感じる。そのようになりやすい。

世界を決定論的にとらえているため、過程に意義を見い出せないのである。


決定論はどのようにして生まれたのか。

1600年代は、先見の明のある思想家たちが世界の大いなる謎に理性・形式・構造をもたらし、ゆっくりと着実に解明が進んでいった時代だった。

ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーが、ケプラーの法則を唱えた。

第1法則:惑星は太陽を1つの焦点とし、惑星によりそれぞれ決まった形と大きさの楕円軌道上を公転する。
第2法則:太陽と惑星を結ぶ線分は、等しい時間には惑星ごとにそれぞれ等しい面積をおおいながら公転する。
第3法則:惑星の太陽からの平均距離の3乗と公転周期の2乗との比は、惑星によらず一定である。

(わならなくてもいい。ただ、こんな内容がどんなものへ行き着いたかに留意して、見ていてほしい)

ガリレオ・ガリレイは、運動・天文学・光学の科学的研究に貢献した。

これらのアイディアは、デカルトなど哲学者の独創的な思考と結びついた。

ルネ・デカルトは、無からは何も生まれない、全ての結果には原因があると論じた。

 ① 人間は不完全な存在である。ゆえに、不完全な認識しかもたず、不完全なものしか知りえない。
② しかし。人間は神という概念を知っている。不完全な人間が、完全な存在である神を知っているのはおかしい。
③ 人間は、神から、神の存在を何らかの方法で教えてもらったと考える他ない。ゆえに、神は存在する。

これら全てのアイディアが、アイザック・ニュートンの思考の基盤となった。

ニュートンの運動と重力の法則は、その後何世紀にもわたって、科学を形づくった。


ニュートンの方程式は非常に強力で。

科学者らはじょじょに、自分たちの理解を超えるものは何もないーーと感じるようになっていった。

宇宙のあらゆるものは、よく機能する数学的機械に既知の値を代入するだけで、計算……いや、決定できると。


18世紀後半から19世紀初頭にかけて。フランスの物理学者ピエール・シモン・ラプラスが、決定論の概念を推し進めた。彼は自身の哲学を次のように要約した。

「宇宙の現在の状態は、それ以前の状態の結果であり、それ以降の状態の原因であると見なすべきだ。自然を動かす全ての力とそれを構成する生物の、それぞれの状況を理解できる知性、これらのデータを分析できるほど広大な知性があれば。その知性は、同じ公式で、宇宙の最も大きな物体の動きと最も小さな原子の動きを包含するだろう。一瞬でも。その知性があれば。不確実なものは何もなく、過去と同じように未来もその目に映るであろう」

数多くの技術的進歩の原動力となったが。同時に、ラプラスの悪魔とも呼ばれた。


英国の科学者ロバート・メイは、集団生物学の謎を解こうとした。

野原や森を歩きまわって生物を分類するような生物学者ではなかった。彼が用いたのはもっぱら、数学的手法だった。一定の初期条件のもとで、動物の個体数が時間とともにどのように変化するか。それをモデル化した。

彼の研究は、ロジスティックな差分方程式を生んだ。これにより、たしかに、動物の個体数をかなり正確に予測できるようになった。

しかし。駆動パラメーター(個体群の変化をひき起こす要因)が高くなると、結果は役に立たないほどばらつくことがわかった。


ローレンツ方程式とは。数学者で気象学者でもあるエドワード・ローレンツが最初に研究した、非線型常微分方程式だ。

主に、p=10  r=28  b=8/3 の場合のものが有名。

実際にこれを解いて x y z 座標で表示すると。お借りした動画のようになる。

以下は、x の初期値を0.000001だけずらした軌道だ。ひき続き動画をお借りする。

しばらくするとずれていき、全く違う軌道になる。

カオス。最初の状態(初期値)の微妙な違いによって、その後の現象が大きく変わる現象だ。

比較的単純な方程式で制御される、単純なシステムでさえ。非常に複雑で、予測不可能なふるまいを見せる可能性があるということだ。


ある日メイ氏は、こんなことを言い出した。

イグ・ノーベル賞は、英国人から価値ある研究への関心をうばいかねない。英国の科学者にはイグ・ノーベル賞を与えるべきではない。

片鱗が見えるような思考をしていたが、ここまでいっちゃうとは。そんなふるまいを見せはじめるなんて、それこそ、予想不可能だったという感じ。


現代社会における社会的不平等について。

人類は、そもそも、社会的地位を気にするように進化している。狩猟と採集で生きていた頃も、当然、個々人の能力差はあった。

今回はあまり活躍できなかったが、次回は率先して前へ出て、狩りで結果を出すぞ!など。格差是正は、今よりは確実に単純なものだった。そのチャンスも、今よりはずっと平等かつ頻繁におとずれていた。

社会的格差があまりにも激しい、現代社会では。格差は生まれた瞬間からはじまる。

ところによっては、生涯それを是正することができない。機会からして、皆無。

過去回より。

ひとり親家庭で育つ子供の割合は、激的に増加している。

特に、シングルマザー家庭では。高学歴女性を親にもつ子どもと、低学歴女性を親にもつ子どもとの間に、大きな環境格差が生まれている。(一傾向として)

所得の再分配を求める声は高いが。

政府が補助金を支給しても、たとえば、親がその金で酒を飲んだりしてしまえば。子どもたちの生活は一向によくならない。

そんな可能性は無視して、可及的速やかに救済する。究極的には、社会がとるべき態度はこの一択だ。日本のような先進国が国民を飢え死にさせるなんてことは、本来あってはならない。

安定した住居がない状態・ネカフェ等を定宿にしている人たちは、この中に含まれていない。

しかし。再分配自体は、長期的な社会的流動性や社会的包容力(ともに支えあって生きていくこと)を向上させはしない。


ソーシャル・メディアも社会的格差に関する問題を悪化させる。

SNSは物質主義と強く結びついている。

通常、人々は、自分のいい面について共有しがちだ。ソーシャル・メディアで見る他人は、実際よりも優れて見えている可能性が高い。これはお互いにだ。

LIKEの数やフォロワー数により、「価値の定量化」も起こる。

人によっては、社会的ステータスを誇示する何かを手に入れるために、借金を負ったり・危険な賭けに走ったりまでする。

CFA協会による2023年の調査報告:今、若い世代ほど、仮想通貨などリスクの高い投資に目を向けがち。


現代社会は、ルッキズムの側面でも、人々を競争へと駆り立てる。

競争が激化すると、人間はプレッシャーを内面化しがち。

現代社会の「要求」に応えることができないと感じる人々がうつ病を発症する傾向は、日本や韓国で、特に顕著だそう。

現代人に消費主義をやめさせる?ソーシャル・メディアへの露出を減らさせる?一体、どうやって。

この類のことは最も解決の難しいことだ。


「ダヴ」が2017年に行った世界的調査。対象は 14ヵ国の10才~17才の女性。約5千人。

この少女らの内、半数以上が、自分の身体に高い自尊心をもっていないことが判明した。

容姿に対する自尊心の低い少女らは、美や外見に対する社会的プレッシャーに屈しやすく、人生を築くための活動から遠ざかりやすいこともわかった。


達成不可能なレベルの美を推進するメディア。

「エンジェルズ」は美しい。ダヴの調査が2017年なので2018年のビジュアルをピックアップした。

もちろん、たとえばヴィクシー・モデルを好きなのはいいのだ。私も何人か好きなモデルさんがいる。これを忘れるなというだけ。彼女らの平均身長は178cmだ。+ 高いヒールのサンダル。

ジゼル × CHANEL の CM とても美しいよ。今年復帰してほしい(限定復活かも)という、ヴィクシーからのオファーを断ったらしいね。

容姿に対する自尊心の高い女性の8割が、たとえメディアで見る姿と違っていても、自分は美しいと思うと回答したのに対して。容姿に対する自尊心の低い女性たちでは、その割合は1割にまで落ちた。

ある意味、前者より後者の方が自意識過剰とも言えるのが、わかるだろうか。

調査に協力した10代の日本人女性の内、48%が、自分の容姿に自信がないからやりたいことをあきらめたことがあると答えた。アイドルを目指すのをあきらめたというのであれば、まぁそういうものかとなるのだが。この割合の高さだ。そんな話ではなかろう。

本人たちの気にしすぎ問題もあることは、否めない。

冒頭で。超難問を解けない自分に劣等感を感じる子らについて、書いた。共通点が見えてくるね。


美の追求は、人間のもつ生命力の1つだとも言える。自分らしい美しさを追い求めること、それは大変よいことだ。

美の基準が自分のためにだけあるのであれば、なんら問題ない。知らず知らずの内に、人を差別するための基準になってしまうこと。

「ルッキズム」とはそれだ。であるからして、ルッキズムは差別を生む要因なのだ。


カレン・カーペンターさん。

「彼女の死は社会に大きな衝撃を与え、拒食症などの摂食障害が社会的に認知されるきっかけとなった」とWikipediaに書いてあるのだから、
一般的に、美への過度な追求が人を死にいたらしめた例として知られている人だ。

世間が絶賛したのは彼女の歌声だったが。
本人が本当にやりたかったのはドラムだったのだ。
シンガーでなくドラマーでいたいと言ったそう。自分はスポットライトをあびる程美しくないとも言っていたと。目立ちたがりの逆というか。誰にでも、性にあわないというのはあるよね。

死にいたるほどの拒食症(直接の死因は急性心不全)だ。原因は、元々体型を気にしていたところに、地元紙に太っていると揶揄されたことーーとそんなに単純な話ではないのだろう。

そのこともつらく。それ以前も以後も、複数のつらいことが彼女を蝕んだのだろう。

大スターの経験する社会的プレッシャーが、いかほどのものか。私などには到底わかりようがない。


少女たちは今、変化を求めている。

幸福の源として美しさを重視しすぎているーーと考える女性は、調査時点の2017年、全体の7割だった。

読書や軽い運動など他者からの評価を介さない行動で、幸せを感じやすいと。そういう行動をした後は自信を感じれると。彼女らは回答していた。

他人の物語の object ではなく、自分自身の物語の subject になろうとしているのだ。

とても素晴らしいことだと思う。


メラビアンの法則というものがある。

米国の心理学者メラビアン氏が、初対面で人を判断する要素を研究して、得られた結果だ。

7-38-55のルールとも呼ばれている。

見た目などの視覚情報:55%
口調や話の早さなどの聴覚情報:38%
話の内容などの言語情報:7%

平常時。(相手にとって)見た目がよくて・感じのよいあいさつができれば。人に初対面から悪い印象を与えてしまうということは、ほとんどない。この調査結果から言えることは、せいぜい、このくらいなのだが。

あるあるな話で。いつしか、人々に拡大解釈されはじめ。会話は内容よりもトーク・テクニックの方が重要だとか、完全に誤った情報が認知されるようになってしまった。

自己啓発セミナーでひと儲けしたい人や、悪意はないがリサーチ不足な人が、誤情報の拡散に拍車をかける。

メラビアン氏本人も「これは、好意や反感について語る中でとられたデーターである。好意や反感について語っていない時に、この等式があてはまるとは限らない」と明示している。


恋愛のストラテジーとしてこれを活用してきた人などは、ハシゴをはずされた気分だろう。

自分の力でものを考えるか、自らリサーチをするかしていたら、そんなことにはならなかったはずだ。

見た目は別として。ごく短時間(第一印象)ではない関わりで、話の内容がいい人が評価されないわけがなかろう。会話テクニックって……詐欺師を目指しているわけでもなし。騙すつもりなどなくても、だ。何でも手っ取り早く評価されようとしすぎ。

異性慣れしていないような受け答えをするが、よく聞けば深い話をする人ーー私には、むしろ、最も高く評価される存在のように思えるが。

また、冒頭に書いた、過程に意義を見い出せない話と共通点が見える。


集合知をことわざで表すと、「三人寄れば文殊の知恵」である。

『The Wisdom of Crowds』(群衆の知恵)という本に、「集合知」が発揮された実例が紹介されている。

家畜の品評会で。牛の体重を当てるクイズが行われた。787人がそれぞれの予想を投票。それらの平均は正解とわずか1ポンド差だった。

ビンにつまったジェリー・ビーンズ。56人でその数を推測。推定値の平均は871個。正解との差は21個だった。

牛の例に比べてジェリー・ビーンズの例は、当てた感がないように聞こえるだろう。それはそうなのだが。21個差よりも正解に近かった個人は1人しかいなかったのだ。「みんなで当てた」と言える。


集合知定理/多様性予測定理。

予測値の多様性が増すほど、不正確な予測が打ち消しあって、集団全体の予測は正解に近づく。

集団誤差 = 平均個人誤差 - 分散値
平均個人誤差:誤差の平均値
分散値:推定値のばらつき

分散値(ばらつき)による推測値誤差の相殺が有効に機能するためには、メンバーに多様性が必要となる。言いかえると。多様性が担保されることで、質の高い集合知が形成されやすくなる。

これも事実だが。

そもそも、個々人の推測が平均として正しければ。第一頂が減少し集団としての誤差は減る。

(牛の体重予測は牛の品評会に集まった人たちによって行われた。牛にたずさわるなんらかの仕事や生活をしている人たちだ。ジェリー・ビーンズの数を予想した人たちと違って。常日頃キャンディーの数当てをしているんだよね〜なんて人はいない)

推測を行うメンバーのそれぞれの推測モデルの質がよいこと。多様な推測モデルが用いられること。両方大切ということだ。


前述したように。大前提として、特定の分野に長けた存在(いわゆるプロフェッショナル)は重要である。

しかし。同一組織や同一メンバーだけでコミュニケーションをとっていると、じょじょに何らかのバイアスが形成される危険性がある。結果的に、集団誤差が大きくなってしまうことがある。

平均個人誤差は小さいが分散値も小さい。それが、ある分野の専門家どおしが集まって話しあっている時の、基本的な状態だからだ。

そのため、異なる性質をもった複数の集団との交流が重要になってくる。

『シン・ゴジラ』でゴジラを倒せた流れ。あれがいい例だ。米軍のバンカー・バスター(強力な一撃)も、たしかにゴジラにきいていたが。


個人の考えを強くもつタイプの人は、自分の考えに自信があり、集合知を無視する傾向にある。よって、彼ら彼女らは、集合知のもち得る悪影響を気にする必要は少ない。(前段で、むしろそれに接近すべきと書いた)

逆に。自分の意見に自信をもっている人に影響されやすいタイプの人は、賢明な答えを出すために、そういったグループと距離をおくことも必要かもしれない。

多数派の考えに同調しやすいこと。これは、一般的に、集団心理と呼ばれるものだ。


「川井を許すな」でトレンド入りする『聲の形』川井
みちゃみちゃやな。

10代の人間の小集団。幼児じゃあるまいし。複雑な力関係も無秩序も、そこにはある。

件数カウントで・明るみに出ているだけで、この数だ。イジメをする子どもは、多くの場合、「ごく普通の子」だと言わざるを得ない。日本国民の何割かが就職せずに犯罪組織に入ったりなど、していないのだから。

人の失敗を笑ったり・悪口を言ったりすることでしか、まわりとコミュニケーションがとれないだとか。おそらくは、そんなタイプの子からはじまり。他のメンバーが同調し出す。

そこには、信念も何もない。


アインシュタインは言った。

いかなる問題も、それが発生したのと同じ次元で解決することはできないと。

国連の子ども権利条約によると。教育を受けることは、全ての子どもの法的権利である。世界を見わたすと現実はそうなっていない。多くの人間にとって、教育は依然として特権だ。

2億4400万人の子どもが学校に通っていない。(2021年時点)

全員が中等教育を修了した状態。世界をそう仮定すると。4億2000万人が貧困から脱出できる計算だという。

地球のリソースは限られているし。そううまくいくものかどうか……わからないが。

教育が個人間の平等を促進するのは、間違いない。教育を通じて、人は、強く熟慮された意見を育むことができるようになるし。また、他人の意見を尊重することもできるようになるからだ。

私は、自分の体験から、そうだと知っている。信じているのではない。知っているのだ。

この記事が参加している募集