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本能寺の変1582 第189話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第189話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 

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光秀は、越前豊原にいた。

 同二十二日。
 加賀入りの前日である。
 光秀は、豊原にいた(福井県坂井市丸岡町豊原)。

  只今は、豊原に在城候、 
 
 すぐ近くに、称念寺がある(福井県坂井市丸岡町長崎)。
 光秀にとって、所縁の寺。
 もしかすれば、立ち寄ったかもしれない。
 これについては、後述する。

光秀には、「夢」があった。

 積年の夢が。
 「国持大名」
 名門土岐氏の一流、明智氏ゆえの悲願。
 
 光秀は、加賀攻めが、すぐに終わる、と思っていた 。

    加州の事も、大略、手間入る間敷く候、
          (「小畠文書」天正三年八月二十一日付 一部抜粋)
 

 それが終われば、・・・・・。
 愈々、である。
 手柄次第で、「夢」が叶う。
 光秀は、燃えていた。 

信長は、一乗谷に入った。

 同二十三日。
 信長は、予定通り一乗谷(福井市城戸ノ内町)へ本陣を移した。
 
  八月廿三日、一乗の谷へ、信長御陣を移させられ、

光秀は、加賀へ攻め入った。 

秀吉も、これに同じ。

 同日。
 これが、信長流人の使い方。
 光秀と秀吉。
 正に、最強のコンビ。
 ともに、北進。
 加賀へ攻め入った。
 これには、稲葉良通父子・細川藤孝・梁田広正らも参陣していた。
 
  参陣は、賀州まで。
  稲葉伊予父子・惟任日向守・羽柴筑前守・永岡兵部大輔・別喜右近、
  打ち入るの趣、御注進有り。
                          (『信長公記』)


 稲葉良通は、斎藤利三の舅である。
 永正十二年1515の生れ、この年六十一歳。
 曾根城主(岐阜県大垣市曽根町)。
 入道して一鉄と号した。
 利三の娘お福(後の春日局)にとっては、祖父にあたる。
 はじめは美濃の守護土岐頼芸、その後斎藤道三に仕えた。
 氏家直元(卜全)・安藤守就とともに「美濃三人衆」と称された。
 永禄十年1567、信長に降伏し家臣となった。
 西美濃の有力者である。

 嫡男貞通は、天文十五1546年の生れ、同三十歳。
 通称、彦六。
 利三の義兄弟である。

信長は、越前の復興に着手していた。

 同二十四日。
 避難していたのだろう。
 信長は、還住した商人に安堵状を与えた。
 
  一揆蜂起に就き、国を退出せしめ、今度還住の儀、其の意を得候、
  前々の如く、異儀有るべからず候なり、

    天正参              信長
      八月廿四日           (朱印)
       木田(福井市木田町)
        橘屋三郎左衛門男

信長は、「上様」と呼ばれていた。 

 この時、武井夕庵が副状を書いた。
 「上様」
 紛れもない「天下人」の姿である。
 
  当国、一揆蜂起に就いて、能州へ立ち退かれ、
  今度、還住の儀、尤も目出度く候、
  上様、御朱印を遣はされ候、
  面目に候、
  御(呉)服・衣の事も、最前、御朱印の筋目、相違有るべからず候、
  其の方へ仰せ付けられ候旨に候、
  一類も、同事(時)に、還住然るべく候、
  左(さ)候へども、大坂門徒の衆は、許容有るべからず候、
  恐々謹言、

    八月廿四日           二位法印
                      尒云*(花押)
     木田庄
      橘屋三郎左衛門慰殿
                (「橘文書」「織田信長文書の研究」)

   *尒云=爾云=じうん 松井友閑 

信長は、豊原に本陣を進めた。

 同二十八日。
 一乗谷から、豊原へ。
 
  八月廿八日、豊原へ御陣を寄せらる。
 
 信長は、己に従順な寺は赦免した。
 
  さる程に、堀江*・小黒*の西光寺、
  連々(かねがね)、申し上ぐる筋目これあり、
  御赦免の御礼申し上げ候。

   *1堀江 福井県あわら市堀江十楽
   *2小黒 福井県鯖江市小黒町

信長は、加賀の南部に簗田広正を配した。

 与力として、佐々長穐・堀江景忠を置く。
 
  賀州能美郡・江沼郡、二郡御手に属すの間、
  檜屋(ひのや)城・大正(大聖)寺山(寺城)、ニツこしらへ、
  別喜右近・佐々権左衛門、幷に堀江を相加へ、入れ置かせられ、

 
 簗田広正は、尾張の出身。
 生年不詳。
 桶狭間の合戦(永禄三年1560)で、手柄を上げた簗田出羽守の子とさ
 れる。
 元亀元年六月、姉川の合戦の時、佐々成政らとともに殿軍をつとめた。
 同三年、三方ヶ原の戦いでは、目付として派遣されている。
 この七月、「別喜右近」の名を賜った。
 織田家重臣の一人。
 信長に嘱望されていたようである。

 佐々長穐も同じく、尾張の出。
 生没年不詳。
 父良則とともに、上杉氏との外交を担当した。
 この配置も、それに関連するものか。
 佐々成政との関係については、よくわからない。

 堀江景忠は、元朝倉氏の家臣。
 生没年不詳。
 永禄十年1567、加賀の一向一揆に通じたため同氏の攻撃を受け逃亡。
 天正二年1574、越前で、一向一揆蜂起。
 この時、もどったらしい。
 同七月頃から、信長に通じていたようである(「法雲寺文書」)。

信長は、僅か十日余りで加賀・越前二ヶ国を手に入れた。

 八月十二日、信長、岐阜発。
  〃十四日、〃 、敦賀着。
  〃十六日、〃 、府中着。

   十余日の内に、賀・越両国仰せ付けらる。
  御威光、中々申すばかりなし。
                          (『信長公記』)

 信長は、本願寺を追い込んでいた。
 じりじりと、破滅の淵へ。
 長島、越前、そして加賀。
 外堀が埋められていく。

 これら一連のことは、程なく、上杉謙信の知るところとなる。
 信長に、躊躇(ためら)いはなかった。
 本性、露見。
 「北進」
 その意志が明らかになった。
 時に、越後の龍、謙信の胸中や如何に。
  
 
 
 
 ⇒ 次へつづく 第190話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 




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