本能寺の変1582 第20話 5藤孝との出会い 1将軍殺害 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第20話 5藤孝との出会い 1将軍殺害
義輝の次弟覚慶は、捕らわれの身となった。
覚慶は、一乗院に幽閉された。
以後、彼の人生は、時代の波に大きく翻弄される。
然うして、二男御舎弟南都一乗院義昭、当寺(興福寺)御相続の間、
御身(義昭)に対し、聊(いささ)か以て野心御座なきの旨、
三好修理大夫・松永弾正かたより宥(ゆる)し申され侯。
尤(もっと)もの由仰せられ侯て、暫(しばらく)、御在寺なさる。
この覚慶こそ、後の足利義昭である。
義昭は、天文六年1537の生れ。
信長の三つ下。
この時、29歳。
父は、室町幕府第十二代将軍・足利義晴。
母は、関白・近衛尚通の娘(慶寿院)である。
義輝は、一つ上。
同腹の兄。
幼くして、母方の叔父にあたる時の関白近衛稙家の猶子となり、
奈良興福寺の一乗院に入って、「覚慶」と名乗った。
永禄五年1562、一乗院門跡を嗣ぐ。
義昭(覚慶)は、奈良を脱出した。
義昭は、夜陰に紛れて姿を消した。
甲賀の和田惟政の館へ入った。
或る時、南都を潜(ひそか)に出御ありて、
和田伊賀守を御憑(たの)みなされ、
【重史079】(『信長公記』)
こちらは、多聞院英俊の記録。
廿八日夜、一乗院覚慶 僧都(そうず=僧正の次位)、廿十九才、
寺を御離れおわんぬ、
御落所、翌日にもしれず、
甲賀の和多(田)ヵ城へ入られおわんぬ、
去る五月十九日、将軍御生害、三十歳、
御舎弟、鹿苑院殿、同上、廿一歳、
【重史080】(「多聞院日記」)
義昭は、幕府再興に動き出した。
和田館に入って、わずか数日。
義昭(覚慶)は、己の意思を表明した。
義昭は、上杉謙信を頼った。
その年、永禄八年1565、八月。
先ずは、越後へ。
御内書を発す。
今度(こたび)、京都様躰、是非なき次第に候、
其れに就き、和田に至り取り退(の)き候、
進退の儀、万端任せ置き候間、
早速、無念を散じ候様、
入魂(じゅこん)、偏(ひとえ)に、頼み入り候、
委細の段、大覚寺門跡え申し候間、演説有るべく候
穴賢(あなかしこ)々々、
八月五日 (花押)
上杉弾正少弼殿
【重史081】(「上杉家文書」)
謙信は、これまで二度上洛している。
天文二十二年1553と永禄二年1559。
謙信は、これまで二度上洛。
将軍義輝に拝謁している。
そのことがあった。
室町幕府として、最も、信頼を寄せる戦国大名だった。
大覚寺義俊が上杉の窓口だった。
義俊は、真言宗大覚寺門跡。
関白近衛尚通の子。
稙通の弟。
義昭にとっては、母方の叔父にあたる。
謙信との親交が濃密であった。
以下は、義俊の副状である。
急度注進申し候、
これによれば、松永久秀が覚慶(義昭)を幽閉していた。
これに対して、開放すべく交渉したのが朝倉義景であった。
一乗院殿南都御座所の儀、
御番を居え候て松永堅く申し付け候へども、
朝倉左衛門督直談せしめ、種々調略を廻らし、
去る廿8日、甲賀和田の城に至り引き退かれ候、
義俊は、謙信の出勢を期待した。
公儀御家督、相定まり候間、先ず以って珍重に存じ候、
其れに就きて、当国の人数も出勢あるべき由に候、
丹波の赤井直正。
また、丹波では。
これに連動して、三好方と反三好方の間に戦いがあった。
赤井直正が内藤宗勝(松永久秀の弟)を討ち取った、とある。
将又(はたまた)、丹州の儀も、
去る二日、奥郡荻野惣右衛門尉(直正)手前に於いて、
内藤備前守(宗勝)其の外七百余人討ち捕り候、
一国平均に成り申し候間、此の砌(みぎり)御出張有るべく候条、
やがて、光秀の宿敵となる男である。
この直正、後に、光秀の大きな障害となる。
これについては、後述する。
大覚寺義俊は、上杉に傾斜していく。
重ねて、謙信の援助を乞うた。
早々御上洛の儀、待ち奉り候、
是非とも御才覚を以て、御当家御再興此の時に候、
偏に仰ぐ所に候、
仍って、扇子十本進献せしめ、賀儀を表す計りに候、
猶、祐阿(水原)申し入るべく候間、再筆能わず候、
穴かしこ々々々々、
八月五日 (花押)
上杉弾正少弼(謙信)殿
【重史082】(「上杉家文書」)
⇒ 次へつづく 第21話 5藤孝との出会い 1将軍殺害
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