本能寺の変1582 目次小 6信長との出会い 第30~43話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
目次小 6信長との出会い 第30~43話
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1使者光秀
第30話
◎永禄十一年1568、春。
◎光秀は、細川藤孝に仕えていた。
◎光秀は、細川藤孝と密接な関係にあった。
◎フロイスの証言。『日本史』
◎光秀は、出来る男。
◎光秀は、優れた能力の持主だった。 『日本史』
◎光秀は、細川藤孝の「中間」だった。
◎多聞院英俊の証言。 「多聞院日記」
◎光秀は、没落していた。 『日本史』「多聞院日記」
◎光秀の悲願、明智の再興。
◎光秀は、これを好機と捉えた。
◎光秀、この時、すでに、四十代。
◎雪解けとともに、交渉が再開された。
◎幾度も、細川藤孝の使者が往来した。
◎この使者こそ、明智光秀だった。
◎そして、交渉成立。
◎義昭は、上杉謙信へ上洛を伝えた。 「上杉家文書」
2美濃立政寺
第31話
永禄十一年1568、夏。
義昭は、一乗谷を出発した。
義昭は、信長を頼る外なかった。 『信長公記』
信長は、義昭を擁立した。 『信長公記』
信長は、義昭を美濃立政寺に迎えた。 『信長公記』
盛大な儀式が執り行われた。 『信長公記』
義昭は、満足した。 『信長公記』
藤孝は、復活した。
藤孝は、大きな手柄を上げた。
和田惟政も、これに同じ。
第32話
◎光秀は、藤孝の下で動いていた。
◎光秀は、出来る男(切れ者)。
◎信長は、軍事力強化を最優先に考えていた。
◎信長は、伊勢を狙った。
◎正に、マキャベリ。
◎徹底的な、リアリストである。
◎信長の先見性・着眼点や、恐るべし。
◎信長は、卓越した行動力と実行力を兼ね備えていた。
◎軍事力の背景には、経済力があった。
◎すなわち、領土拡大。
◎藤孝は、光秀を信長の使者に起用した。
◎光秀の貢献度は、きわめて大きい。
◎光秀は、褒美として、幕府の足軽に用いられる。
◎信長は、光秀を高く評価していた。
信長は、自信に漲っていた。【年表】
第33話
◎石高は、優に百万石を超えていた。 「当代記」
◎力こそ、正義。
◎これが、信長の基本的な考え方。
◎光秀は、信長と同じ考え方・感覚の持ち主。
◎すなわち、同じ穴の狢。
◎光秀も、信長同様、リアリスト。
◎光秀は、出来る男(切れ者)。
◎二人は、波長が合った。
◎それ故の、抜擢だった。
武田信玄・上杉謙信・朝倉義景との比較。 「当代記」
そして、足利義昭を手に入れた。
信長は、「天下」に王手を懸けた。
信長には、余裕があった。
「志賀槇太郎氏所蔵文書」「織田信長文書の研究」
信長には、後顧に憂いがなかった。
「志賀槇太郎氏所蔵文書」「織田信長文書の研究」
信玄と家康が今川領を折半した。
「志賀槇太郎氏所蔵文書」「織田信長文書の研究」
信長は、謙信に上洛への協力を要請した。
「志賀槇太郎氏所蔵文書」「織田信長文書の研究」
謙信は、越中の一向一揆と戦っていた。
「志賀槇太郎氏所蔵文書」「織田信長文書の研究」
3上洛
第34話
永禄十一年1568、秋。
信長、京へ。 『信長公記』
信長は、尾・濃・勢・三、四ヶ国の軍勢を率いた。 『信長公記』
徳川の軍勢も、参陣した。
信長は、六角承禎の様子を窺った。 『信長公記』
信長は、箕作城を攻め落とした。 『信長公記』
六角承禎は、城を棄て逃げた。 『信長公記』
信長は、六角氏の領地と家臣を手に入れた。 『信長公記』
第35話
信長は、迎えの使者を派した。 『信長公記』
義昭は、立政寺を出発した。 『信長公記』
信長は、三井寺に入った。 『信長公記』
信長は、ここで義昭と合流した。 『信長公記』
信長、上洛。 『信長公記』
信長は、三好三人衆を攻撃した。 『信長公記』
◎義昭、上洛。 『信長公記』
◎山科言継がこの歴史的瞬間を見ていた。 「言継卿記」
◎細川藤孝も、京に入った。 「言継卿記」
◎光秀も、これに同じ。 「言継卿記」
◎光秀は、藤孝の下で動いていた。
京の近郊で、戦いが始まった。 「言継卿記」
第36話
信長は、反対勢力の掃討戦へ向かった。 『信長公記』
浅井長政の軍勢も、参陣していた。 「言継卿記」
義昭が出馬した。 「言継卿記」
摂津は、三好氏の根拠地である。
信長は、山崎へ進出した。 『信長公記』
義昭も、山崎へ。 「言継卿記」
松永久秀が娘を人質に差し出した。 『多聞院日記』
第37話
義昭は、天神馬場へ進んだ。 「言継卿記」
芥川山城が落ちた。 『信長公記』
信長は、義昭を奉じて芥川山城に入った。 『信長公記』
山科言継は、これらを克明に記録していた。 「言継卿記」
◎信長は、池田城を攻めた。 『信長公記』
◎城中には、荒木村重がいた。 『信長公記』
◎光秀は、後に、細川藤孝・荒木村重と婚姻関係を結ぶ。
◎池田氏、降伏。 『信長公記』
第38話
戦いは、終わった。
信長は、五畿内を手に入れた。
信長は、芥川山城に軍勢を納めた。 『信長公記』
義昭も、芥川山城に入った。 「言継卿記」
松永久秀は、芥川山城へ向かった。 「多聞院日記」
近隣の諸大名も、続々とやってきた。 「言継卿記」
久秀は、天下の大名物九十九髪を献上した。 『信長公記』
信長は、多くの人たちから挨拶を受けた。 『信長公記』
信長は、久秀の大和支配を認知した。 「多聞院日記」
信長は、芥川山城に十四日間滞在した。 『信長公記』
4御父信長
第39話
◎信長は、京に凱旋した。
◎義昭は、本國寺に御座を置いた。 『信長公記』「言継卿記」
◎信長は、清水寺に入った。 『信長公記』
◎信長は、大衆に配慮した。 『信長公記』
◎信長は、正義感が強い。 『信長公記』
信長は、短期間に天下を平定した。 『信長公記』
義昭は、細川管領家の屋敷に御座を移した。 『信長公記』
朝廷が動いた。 「言継卿記」
公家たちが内裏に集合した。 「言継卿記」
◎義昭は、第十五代将軍に就任した。 『信長公記』
◎細川藤孝は、これに立ち会った。 「言継卿記」
◎光秀は、京にいた。
第40話
◎信長、あらばこそ。 『信長公記』
◎信長は、室町幕府の再興を成し遂げた。 『信長公記』
義昭は、信長を招いて能を張行した。 『信長公記』
義昭は、得意の絶頂にあった。 『信長公記』
◎義昭は、信長に副将軍職か管領職を与えようとした。 『信長公記』
◎使者は、細川藤孝。 『信長公記』
第41話
◎これが、信長の志向するところ。
◎信長は、義昭の要請を断った。 『信長公記』
◎信長と義昭の間には、志向の相違があった。
◎光秀は、これらを場末で見ていた。 『信長公記』「言継卿記」
信長は、分国中の関所を廃止した。 『信長公記』
御父 織田弾正忠殿。 『信長公記』
義昭は、信長に感状を与えた。 『信長公記』
第42話
信長は、岐阜に帰城した。 『信長公記』
信長の名は、諸国へ鳴り響いた。
信長は、来春、上洛するつもりだった。
信長は、都に五千の兵を残した。 「多聞院日記」
義昭は、幕府の体裁を整えた。
細川藤孝は、御供衆。
和田惟政も、これに同じ。 「永禄六年諸役人附」
三淵藤英は、御部屋衆。 「永禄六年諸役人附」
第43話
番衆は、義昭の親衛隊。 「永禄六年諸役人附」
◎光秀は、義昭の家臣になった。
◎光秀は、足軽にすぎなかった。 「永禄六年諸役人附」
⇒ 次へつづく 目次小 7信長の甲斐侵攻 第44~46話
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目次 が更新されました。
これで、全体像がよくわかる!!
毎日更新!!
原因・動機の究明は、この一歩から!!
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重要 ◎目次 が更新されました。
本能寺の変
原因・動機は、この中にあり!!
ご注目下さい!!
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