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本能寺の変1582 第36話 6光秀と信長 3上洛 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第36話 6光秀と信長 3上洛 

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信長は、反対勢力の掃討戦へ向かった。

 京を出て、勝竜寺へ。
 寂照院に本陣を置いた(京都府長岡京市奥海印寺明神前31)。
 城の北西、一里(4km)ほどの地。

  廿九日(二十七日の誤り)、青龍寺表へ御馬を寄せられ、
  寺戸寂照に御陣取。

  程なく、落城(二十九日)。
  これに依つて、岩成主税頭降参仕り、
                          (『信長公記』)

浅井長政の軍勢も、参陣していた。

 「八千計り」、とある。
 
相当な数である。
 当時は、高島郡も、長政の支配下にあった。

  廿七日、癸酉(みずのととり)、天晴、酉の刻より小雨(18時頃)、
  江州北郡衆・高島衆、八千計(ばか)り、神楽岡に陣取り、
  又、南方へ越しおわんぬ、

義昭が出馬した。

 信長の後につづく。

  武家御所、清水寺より東寺え御座を移され、
  又、西岡向へ御座を移さるゝと云々、

  西岡方々所々・吉祥院・淀・鳥羽・河州・楠葉以下、放火なり、

  今夜、武家、西岡寺土の寂勝院に御陣取りと云々、

  諸勢、山崎天神馬場まで陣取りと云々、
  勝隆寺の城、堅固と云々、
  但し、和睦の調(ととの)ひこれ有りと云々、

                          (「言継卿記」)

摂津は、三好氏の根拠地である。

 その本城は、芥川山城(高槻)。
 城には、三好長逸(ながゆき)が立て籠もっていた。
 長逸は、三好三人衆の頭目。
 京兆家の当主細川昭元(19歳)を擁している。

信長は、山崎へ進出した。

 狙いは、同城を手に入れること。
 三好から、織田へ。
 時代は、変わった。
 そのことを、広く世に知らしめようとした。

  晦日(二十八日の誤り)、山崎御着陣。
  先陣は、天神の馬場に陣取る(大阪府高槻市天神町)。
                          (『信長公記』)

義昭も、山崎へ。

 「取物」、「放火」。
 
付近は、騒然たる状況だった。

  廿八日、甲戌(きのえいぬ)、雨降る、巳の刻(10時頃)より天晴、
  早旦より、度々禁中見舞い申す、
  油小路まで中山以下七八人見物に罷り出で、二条まで下る、
  山崎破るの由、申す、
  取物(掠奪)ども、繁多なり、
  西岡辺り、悉(ことごと)く尚放火、
  武家、御所、山崎の竹内左兵衛亭え御座を移さると云々、
  先勢、芥川の市塲放火と云々、
                         (「言継卿記」)

松永久秀が娘を人質に差し出した。

 大和である。
 久秀は、信長に急接近していた。 

  昨日、松少より、人質に広橋殿のむすめ祝言と号し、
  京へ上せられ了んぬ、
  尾張守へ遣わされ了んぬ、
                  (『多聞院日記』九月二十九日条)



 ⇒ 次へつづく  第37話 6光秀と信長 3上洛


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