本能寺の変1582 第35話 6光秀と信長 3上洛 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第35話 6光秀と信長 3上洛
信長は、迎えの使者を派した。
使者は、不破光治。
岐阜、立政寺へ。
公方様(義昭)へ、御堅約の御迎へとして、
不破河内、
十四日に、濃州西庄、立正寺へさしつかはされ、
義昭は、立政寺を出発した。
東山道を西へ(中山道)。
京をめざす。
この日、近江に入った。
柏原成菩提院、泊。
行程、凡そ30km。
廿一日、既に御馬を進められ、柏原上菩提院御着座。
翌日、桑実寺(くわのみでら)に到着。
同寺は、観音寺山の中腹にある
この日の移動距離、凡そ十里(40km)。
廿二日、桑実寺へ御成り。
信長は、三井寺に入った。
信長は、守山へ進出した。
廿四(二十二の誤り)日、信長、守山まで御働き、
翌日、さらに、南下。
上洛するには、琵琶湖か瀬田川かどちらかを渡らなければならない。
なにしろ、大軍勢である。
数多くの船が必要だった。
信長は、その手配・準備等に手間取った。
そのため、この日は彼の地に留まらざるをえなかった。
翌日、志那・瀬田の船、さし相ひ(=かち合い)、御逗留。
信長は、琵琶湖を渡った。
三井寺極楽院に本陣を置く。
廿六(二十四の誤り)日、
御渡海なされ、三井寺極楽院に御陣を懸けられ、
諸勢、大津の馬場・松本に陣取る。
信長は、ここで義昭と合流した。
義昭は、一日遅れて、三井寺に到着した。
廿七(二十五の誤り)日、
公方様御渡海にて、三井寺光浄院に御陣宿。
信長、上洛。
信長は、京に入った。
東寺に、本陣を構えた。
廿八(二十六の誤り)日、信長東福寺(東寺の誤り)へ御陣を移され、
信長は、三好三人衆を攻撃した。
三人衆の一人、石成友通が勝竜寺城に立て籠もっていた。
柴田勝家ら四将が、これを攻めた。
柴田日向守・蜂屋兵庫頭(頼隆)・森三左衛門(可成)・坂井右近(政尚)、
此の四人に先陣を仰せ付けられ、
則ち、かつら川打ち越し、御敵城、岩成主税頭楯籠る正立寺表に
手遣ひ、
御敵も、足軽を出だし侯。
右四人の衆、見合せ、馬を乗り込み、頸五十余討捕り、
東福寺にて、信長へ御目に懸けられ、
◎義昭、上洛。
義昭は、清水寺に御座を移した。
公方様、同日に清水へ御動座。
(『信長公記』)
◎山科言継がこの歴史的瞬間を見ていた。
織田の軍勢は、二方向から京に入った。
廿六日、壬申、天晴、
早日より、尾州衆出張り、山科郷より南方へ通り了(おわ)んぬ、
北白川より、同じく出づる人数これあり、
◎細川藤孝も、京に入った。
細川兵部大輔(藤孝)・明印(明院良政)ら、北門まで参る、
◎光秀も、これに同じ。
◎光秀は、藤孝の下で動いていた。
当然、そうなる。
しかし、その名は、未だ世に出ず。
今日、武家(義昭)、清水寺まで御座を移さると云々、
織田弾正忠信長、東寺まで進発と云々、
【参照】
◎第30話 第30話
◎光秀は、細川藤孝に仕えていた。
◎光秀は、細川藤孝と密接な関係にあった。
◎フロイスの証言。 『日本史』
◎光秀は、細川藤孝の「中間」だった。
◎多聞院英俊の証言。 「多聞院日記」
◎細川藤孝の使者、光秀。
◎そして、交渉成立。
◎第32話 第32話
◎光秀は、藤孝の下で動いていた。
◎光秀は、出来る男(切れ者)。
◎藤孝は、光秀を信長の使者に起用した。
◎光秀の貢献度は、きわめて大きい。
◎信長は、光秀を高く評価していた。
京の近郊で、戦いが始まった。
山科郷・粟田口・西院方々に放火、
久我に於いて軍(いくさ)これありと云々、
左右方(そうかた)、多(さは)に討死と云々。
石成主税助友通の城、勝龍寺に於いて、同じく合戦これありと云々。
(「言継卿記」)
⇒ 次へつづく 第36話 6光秀と信長 3上洛
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