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本能寺の変1582 第34話 6光秀と信長 3上洛 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第34話 6光秀と信長 3上洛 

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重要 ◎目次 

永禄十一年1568、秋。

 いよいよ、その時が来た。

信長、京へ。

 岐阜城を出発。
 近江の六角。
 「江州一篇に討ち果たし」
 これを蹴散らし。
 「御迎へを進上」

  九月七日に公方様へ御暇(いとま)を申され、
  江州一篇に討ち果たし、御迎へを進上すべきの旨、仰せ上げられ、

信長は、尾・濃・勢・三、四ヶ国の軍勢を率いた。

 総勢6万ほどだったという。
 この日は、平尾泊。
  
  尾・濃・勢(北伊勢衆)・三(三河衆)、四ヶ国の軍兵を引卒し、
  九月七日に打立ち、平尾村御陣取り。

徳川の軍勢も、参陣した。

 織田と徳川は、同盟関係にある。

信長は、六角承禎の様子を窺った。

 高宮に、三日ほど滞留。

  同八日に、江州高宮御着陣。
  両日、御逗留なされ、人馬の息を休め、


 観音寺城は、目と鼻の先。
 信長は、攻め方を考えた。

  十一日、愛智川近辺に野陣をかけさせられ、
  信長、懸けまはし、御覧じ、

信長は、箕作城を攻め落とした。

 観音寺城は、六角氏の本城。
 箕作城は、その支城の一つ。
 すぐ近くにあった。
 信長は、これに目を付けた。

 時代感覚の相違。
 承禎は、為す術(すべ)がなかった。

  わき々々数ヶ所の御敵城へは、御手遣いもなく、
  佐々木父子三人楯籠られ候観音寺並びに箕作山(みづくりやま)へ、

  同十二日に、かけ上させられ、
  佐久間右衛門・木下藤吉郎・丹羽五郎左衛門・浅井新八に
  仰せ付けられ、
  箕作山の城攻めさせられ、
  申の剋(16時頃)より夜に入り、攻め落とし訖(おわ)んぬ。


 美濃三人衆は、信長の采配に驚いた。

  さる程に、去る年、美濃国大国めしおかれ候間、
  定めて、今度は、美濃衆を左手へ夫兵(先鋒)に差し遣はさるべしと、
  みの衆存知しところに、

  一円(まったく)御構ひなく、御馬廻にて箕作を攻めさせられ、
  美濃三人衆、稲葉伊予・氏家卜全・安藤伊賀、
  案の外なる御行(てだて)哉(かな)と、奇特の思ひをなす由なり。


 この日は、箕作山泊。

  其の夜は、信長、みつくり山に御陣を居(す)ゑさせられ、

六角承禎は、城を棄て逃げた。

 攻め立てる織田の大軍勢。
 箕作城は、瞬く間に落とされた。

 承禎は、意表を衝かれた。
 作戦は、根本から崩れ去った。
 観音寺城の将兵たちは、その様子を眼前で見せつけられ、
 すっかり、戦意を喪失した。
  
 六角承禎・義治父子は、父祖伝来の城を捨てた。
 夜陰に紛れ、何処ともなく、消え去った。

  翌日、佐々木承禎が館、観音寺山へ攻め上らるべき御存分のところ、
  佐々木父子癈北致し、


 信長、入城。

  十三日に観音寺山乗つ取り、御上り候。

信長は、六角氏の領地と家臣を手に入れた。

 家臣たちは、降伏した。
 信長は、彼らを赦免し、その多くを召し抱えた。

  これに依つて、残党降参致し候の間、
  人質を執り固め、元の如く立て置かれ、
  一国平均候へば、
                           (『信長公記』)



 ⇒ 次へつづく  第35話 6光秀と信長 3上洛


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