本能寺の変1582 第33話 6光秀と信長 2美濃立政寺 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第33話 6光秀と信長 2美濃立政寺
◎石高は、優に百万石を超えていた。
この頃は、まだ検地の前。
確かな数字は、わからない。
以下は、「当代記」の拠るものである。
したがって、もう少し後の時代のもの。
しかし、それ程、差はないと思われる。
参考にされたい。
信長の領国
美濃国 五十四万石
尾張国 五十七万石
計 百十一万石
◎力こそ、正義。
そして、さらに伊勢国(五十六万石)に手を伸ばさんとしていた。
◎これが、信長の基本的な考え方。
繰り返す。
信長は、徹底的な、リアリスト。
卓越した行動力と実行力を兼ね備えていた。
軍事力の背景には、経済力があった。
すなわち、領土拡大。
それを可能にしたのが、「米」・「人」・「銭」だったのである。
◎光秀は、信長と同じ考え方・感覚の持ち主。
◎すなわち、同じ穴の狢。
◎光秀も、信長同様、リアリスト。
◎光秀は、出来る男(切れ者)。
◎二人は、波長が合った。
◎それ故の、抜擢だった。
そう、思う。
これらについては、後述する。
武田信玄・上杉謙信・朝倉義景との比較。
信玄の領国
甲斐国 二十二万石
信濃国 四十万石
西上野国 二十五万石(上野四十九万の約半分として)
計 八十七万石
謙信の領国
越後国 三十九万石
朝倉義景の領国
越前国 四十九万石
以上が彼らの経済力である。
信長は、さらに、その上を行った。
そして、足利義昭を手に入れた。
義昭は、掌中にある。
これが、その時の現実である。
信長は、一歩、二歩、先行していた。
信長は、「天下」に王手を懸けた。
信長は、都を目指した。
義昭に供奉。
「天下布武」
前、へ。
信長には、余裕があった。
以下は、信長が謙信へ送った書状である。
処々に、信長の余裕を感じる。
少々、上から目線は気のせいか。
信長と謙信は、友好関係にあった。
去る六日芳問拝閲を遂げ候、
畿内幷(なら)びに此の表(岐阜)の様子、
其元(貴国では)風説叵(かたき=難き)の由候につきて、
尋ね、承り候(照会をうけた)、
御懇情に候、
然る間、始末の有る姿、一書を以って申し候、
毛頭(決して)越度なきの条、賢意を安んぜらるべく候、
仍って、条々御入魂の趣(配慮の数々)、快然の至りに候、
誠に、爾来疎遠の様に候、
所存の外に候、
信長には、後顧に憂いがなかった。
信長は、諸方面に手を打った。
出陣の日、未だ定めず。
信長は、信玄とも友好関係にある。
そのことに関して、謙信へ。
義昭は、信長の供奉を承諾した。
甲刕(州)と此方(信長)の間の事、
公方様、御入洛に供奉の儀、肯(うけかい)申すの条、
飛騨は、信玄の分国。
美濃の隣国である。
妨害しないよう和議を申し合わせた。
隣国、其の妨(さまた)げを除き、一和の儀、申し合わせ候、
信玄と家康が今川領を折半した。
駿・遠両国について。
信玄と家康の間で、互いに侵略しない約束を結んだ。
双方とも、これによって、動くことができない。
其れ以来は、駿遠両国との間、自他の契約の子細候、
これに依り、寄り除かざる為躰(ていたらく)に候、
信長は、謙信に上洛への協力を要請した。
謙信とのことは、何も変わらない。
これまでも申してきたように、越後と甲斐が和睦し、互いに意恨を忘れ、
天下のことに協力するよう願っている。
然りと雖も、万(よろず)貴辺と前々相談の族(やから)は別条なく候、
度々申し旧(ふ)り候如く、
越甲の間、無事に属し、互いに意趣を抛(なげう)たれ、
天下の儀、御馳走希(こいねが)う所に候、
謙信は、越中の一向一揆と戦っていた。
一揆の裏に、信玄あり。
謙信は、翻弄される。
将又(はたまた)越中表に一揆蜂起、其の方御手前(失策)に候歟、
神保父子の間、鉾楯(争い)に及ぶの旨に候、
如何の躰に候哉、
彼の父子の事は、信長に於いても疎略なきの条、
痛み入る斗(ばかり)に候、
随って、唐糸五斤紅・豹皮一枚進らせ候、
猶、重ねて申し述ぶべく候、
恐々謹言、
七月二十九日 信長(花押)
上杉弾正少弼殿
これを進覧候、
(「志賀槇太郎氏所蔵文書」「織田信長文書の研究」)
⇒ 次へつづく 第34話 6光秀と信長 3上洛
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