本能寺の変1582 第42話 6光秀と信長 4御父信長 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第42話 6光秀と信長 4御父信長
信長は、岐阜に帰城した。
九月七日、出陣。
十月二十八日、帰城。
この二ヶ月に満たぬ間に、世の中は大きく変わった。
廿六日、江州守山まで御下り。
廿七日、柏原上菩提院御泊り。
廿八日、濃州の内、岐阜に御帰城。
千秋万歳、珍重々々。
(『信長公記』)
信長の名は、諸国へ鳴り響いた。
家臣らにとっては、自慢の主君。
「千秋万歳、珍重々々」
大きな誇りであった。
信長は、来春、上洛するつもりだった。
「来二月に、信長、必ず上洛」、とある。
気懸かりだったのだろう。
残念ながら、それは、的中する。
信長は、都に五千の兵を残した。
佐久間信盛・丹羽長秀・木下藤吉郎は、武将として。
村井貞勝・明院良政は、吏僚として。
兵数、五千。
但し、いつまで滞在したのかは不明である。
廿二日、
一、京には、尾州より、佐久間・村井・にわ五郎左衛門・明印・
木下藤吉、五千計(ばか)りにて、残し置きおわんぬ、
来二月に、信長、必ず上洛あるべきと云々
(「多聞院日記」十一月二十二日条)
義昭は、幕府の体裁を整えた。
新たな体制である。
以下、人員構成等について示す(①~⑬)。
細川藤孝は、御供衆。
義昭の最重臣の一人。
桂川以西の地と勝竜寺城を与えられた。
和田惟政も、これに同じ。
藤孝に次ぐ、功労者の一人。
惟政は、摂津三守護の一人に任じられた。
初めは芥川山城、後に高槻城を居城とする。
藤孝と惟政の貢献度の大きさがこれでわかる。
①御供衆(次第不同)。
大館伊予守晴忠。
一色式部少輔藤長。
細川兵部大輔藤孝。
上野陸奥守信忠。佐渡守に任ず。
上野大蔵大輔豪孝。
武田刑部大輔信実。
佐々木治部大輔高成。京極弟。
一色播磨守晴家。
武田治部少輔信堅。
和田伊賀守惟政。
伊勢宮千代。
畠山次郎。
上野民部大輔憲忠。
三淵藤英は、御部屋衆。
細川藤孝は、三淵晴員(はるかず)の二男。
幼くして、細川刑部少輔晴広の養子になった。
以後、細川を称す。
藤英は、三淵晴員(はるかず)の嫡男。
藤孝の兄である。
子に、秋豪(あきひで)がいた。
三淵氏は、父・子・孫、一家三代が幕府の要職にあった。
②御部屋衆
大館源五郎宗貞。治部少輔に任ず。
三淵伊賀道宗薫(晴員)。
同弾正左衛門慰藤英。大和守に任ず。
朽木刑部少輔藤綱。
杉原上総介長盛。
荒川與蔵輝宗。
三淵弥四郎秋豪。
一色三郎秋成。
上野中務太郎秀政。堀弥八郎。當御蒼衆なり。
一色刑部少輔氏明。吉良殿弟なり。
一色四郎秋孝。
一色駿河守孝秀。初め二階堂と号す。
上野宮内少輔。
伊勢上野介。
同幸松。
③申次。
飯川山城守信堅。
大和治部少輔孝宗。
一色市正信忠。
矢嶋越中守定行。
安東蔵人泰職。
海老名中務少輔。
(「永禄六年諸役人附」後半部分1/2)
⇒ 次へつづく 第43話 6光秀と信長 4御父信長
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