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本能寺の変1582 第31話 6光秀と信長 2美濃立政寺 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第31話 6光秀と信長 2美濃立政寺 

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重要 ◎目次

永禄十一年1568、夏。

 信長は、岐阜いた。

義昭は、一乗谷を出発した。

 信長は、迎えの使者を派した。
 「村井民部・島田所之助を進上なされ」
 正に、適任。
 二人は、織田家の文官。
 宿老である。

 信長のことである。
 義昭は、将軍と成る人物。 
 格式を重んじた、壮麗な行列だっただろう。
 細川藤孝も、和田惟政も、この中にいた。
 朝倉義景が、これを見送った。
 義景は、軍勢を出し、越前・近江の国境まで、路地警固に努めたという。

義昭は、信長を頼る外なかった。

 六角承禎に、裏切られ。

  佐々木左京大夫承禎を憑みおぼしめすの旨、
  種々様々上意侯と雖も、
  既に、主従の恩顧を忘れ、同心能はず。
  結局、雑説を申し出だし、情(つれ)なく追ひ出だし申すの間、
  憑(たの)む木本(このもと)に、雨漏れ、
  甲斐なく、又、越前へ下向なされ訖(おわ)んぬ。

 朝倉義景は、要請に応じず。

  朝倉事、元来、其の者に非ずと雖(いえど)も、
  彼の父(孝景)、上意を掠め(取り入り)、御相伴の次(なみ)に任じ、
  我が国(越前)に於いて雅(我)意に振舞ひ、
  御帰洛の事、中々詞(ことば)に出だされざるの間、
  是又、公方様御料簡なく、

 上杉謙信は、出陣しなかった。

信長は、義昭を擁立した。

 一転、そして、また一転。
 斯くして、義昭は、元の鞘(さや)に収まった。 

  此の上は、織田上総介信長を偏(ひとえ)に憑(たの)み入られたきの趣、
  仰せ出ださる。
  既に国を隔て、其の上、信長尫弱(おうじゃく=微力)の士なりと雖も、
  天下の忠功を致さんと欲せられ、一命を軽(かろん)じ、
  御請(うけ)なさる。

信長は、義昭を美濃立政寺に迎えた。

 同寺は、岐阜市西荘3丁目に現存する。
 岐阜城より西南方向へ6kmほどの地点。 

  永禄十一年七月廿五日、
  越前(一乗谷)へ御迎へのため、
  和田伊賀守・不破河内守・村井民部・島田所之助を進上なされ、

  濃州西庄立正寺に至りて、公方様御成り。

盛大な儀式が執り行われた。

 これまでの苦労が報われた瞬間である。
 「長かった」
 そう、思っただろう。
 永禄八年1565の、あの時。
 以来、四年の歳月が流れていた。

  末席に鳥日(ちょうもく=銭)千貫積ませられ、
  御太刀・御鎧(よろい)・武具・御馬色々進上申され、
  其の外、諸侯の御衆、是れ又、御馳走斜ならず。

義昭は、満足した。

 となれば、次は上洛。
 手の届くところに、それは、ある。

  此の上は、片時も(一刻も早く)御入洛御急ぎあるべしと、思し食し、
                          (『信長公記』)

藤孝は、復活した。

 上杉→織田→上杉→織田。
 逆転、また逆転。
 ここに、ようやく、決着がついた。
 これ以後、親信長派が主流となる。
 当分の間は、・・・・・。
 義昭の家中には、この様な対立があった。

藤孝は、大きな手柄を上げた。

 後の論功行賞から、そのことがよくわかる。
 これについては、後述する。

和田惟政も、これに同じ。

 同上。



 ⇒ 次へつづく  第32話 6光秀と信長 2美濃立政寺


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