本能寺の変1582 第40話 6光秀と信長 4御父信長 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第40話 6光秀と信長 4御父信長
◎信長、あらばこそ。
信長、日域(我国)無双の御名誉、末代の御面日、
後胤之亀競(亀鏡=手本)に備へらるべきものなり。
◎信長は、室町幕府の再興を成し遂げた。
義昭を立政寺に迎えてから、三ヶ月が経過していた。
七月二十五日~十月二十二日。
公方様御憑み、百ケ日の内に天下仰せ付けられ侯事
一、公方一乗院殿、
佐々木承禎を御憑み侯へども、同心なく、
越前へ御成り侯て、朝倉左京大夫義景を御憑み侯へども、
御入洛御沙汰、中々、これなし。
さて、上総介信長を憑みおぼしめすの旨、
細川兵部大輔・和田伊賀守を以て上意侯。
則ち、越前へ、信長より御迎へを進上侯て、
百ケ日を経ず、
御本意を遂げられ、征夷将軍に備へられ、
御面日、御手柄なり。
義昭は、信長を招いて能を張行した。
信長は、知っていた。
好事がいつまでも続かぬことを。
そして、この先間もなく起こるだろう新たな波乱を。
今度、粉骨の面々、見物仕るべきの旨、上意にて、
観世太夫に御能を仰せ付けらる。
義昭は、得意の絶頂にあった。
信長は、義昭を戒めた。
御能組(組み立て)、わき弓八幡(ゆみやわた)、御書立、十三番なり。
信長、御書立、御覧じ、
未だ、隣国の御望みもこれある事に侯間、
弓矢納まりたるところ、御存分なき由に侯て、
五番につゞめられ、細川殿の御殿にて御座侯ひき。
◎義昭は、信長に副将軍職か管領職を与えようとした。
信長と義昭。
多くの者たちが二人を見ていた。
初献の御酌、細川典厩(藤賢)。
◎使者は、細川藤孝。
藤孝は、信長が快諾すると思った。
信長のことを、まだ、よく知らない。
爰(ここ)において、信長へ、
久我殿・細川兵部大輔・和田伊賀守(惟政)、三使を以て、
再三、御使これあり、
副将軍歟(か)、官領職に、准ぜらるべきの趣を仰せ出ださる。
(『信長公記』)
⇒ 次へつづく 第41話 6光秀と信長 4御父信長
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