本能寺の変1582 信長、死す 是非に及ばず 1 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長、死す 是非に及ばず 1
今から441年前のこと*。
『信長公記』の中でも、最も有名な部分。
著者太田牛一の息づかいが聞こえるようである。
手に汗握る場面。
緊迫感が伝わって来る。
*2023年-1582年=441年
天正十年六月二日、未明。
世間の誰もが予期せぬことであった。
さる程に、不慮の題目出来(しゅったい)侯て、
光秀は、己の心底を打ち明けた。
彼らこそ、腹心の者ども。
「一蓮托生」
強い絆で結ばれていた。
六月朔日、夜に入り、丹波国亀山にて、惟任日向守光秀、逆心を企て、
明智左馬助(秀満)・明智次右衛門(光忠)・藤田伝五(行政)・斎藤内蔵
(利三)、是れ等として談合を相究め、
「信長を討つ」
戦国の世である。
「生」と「死」が隣り合っていた。
一手違えれば、そこは地獄。
光秀には、先が見えた。
「ならば」
取るべき道は、ただ一つ。
結果、それは天下簒奪(さんだつ)を意味する。
信長を討ち果たし、天下の主となるべき調儀を究め、
(『信長公記』)
⇒ 次回へつづく 信長、死す 是非に及ばず 2
目次大 信長、死す 1~7
目次中 信長、死す 1~7
目次小 信長、死す 1~7
信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。
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