本能寺の変1582 信長、死す 是非に及ばず 2 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長、死す 是非に及ばず 2
光秀は、中国攻めを取り止めた。
軍勢の一部は、すでに西へ向けて進発していた。
光秀は、これらに引き返すよう命じた。
亀山より中国へは、三草越えを仕り侯。
爰(ここ)を引き返し、
老ノ坂を経て、山崎へ。
明智軍は、東へ向きを変えた。
将兵らは、真の行先を知らず。
東向きに馬の首を並べ、
老の山へ上り、
山崎より摂津国地を出勢すべきの旨、
諸卒に申し触れ、
光秀は、亀山を発った。
先手の将は、斎藤利三ら談合の衆。
談合の者どもに先手を申しつけ、
(『信長公記』)
暗闇の中。
軍勢は、粛々と進む。
⇒ 次回へつづく 信長、死す 是非に及ばず 3
目次大 信長、死す 1~7
目次中 信長、死す 1~7
目次小 信長、死す 1~7
信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。
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