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二度と終わらない地獄とともに―孤独な戦いの行く末―
遂にすべてが終わった。
いや、最初から始まってなどいなかったのかもしれない。
自分が幸せになる道なんてこの世界のどこにもなかったのだ。
そして、いくら努力をしても「地獄」からは逃れられない事実だけだった。
自分自身の周りは、本当にどうしてそんなに幸せなの?と思える人が多くいる。まるで、不正を冒して“運”を独り占めしているかのようにさえ思えてしまう。
自分自身、できる努力をしてきた。一人ぼっち
「いじめ加害者」の人生に「僕ら」は風景でしかないのか
幾度も、いじめを受けた後の人生は、悲惨で取り返しのつかないものになってしまうことが多いと述べてきた。いじめをして、個人の人権を侵害し、人生そのものを壊しても、加害者にとっては「青春の1ページ」でしかない。
加害者たちは、何もハンデを背負うことなく進学し、恋愛をし、一歩一歩着実に「人」になっていく。適切の段階で、適切な時期に“発達段階”を歩むことができる。そうなれば、人格や精神は整った状態で大
よく頑張った、よく耐え抜いた、よく乗り越えた、それでも。
よく頑張った
よく耐えた抜いた
よく乗り越えた
でもキミは無意味だから、ずっとこの牢獄にいなさい
人としては生きさせないし
人としての幸福も渡さない
この世界では、人を殺したり、人を傷つけたり、自分を優先し、能力のあるものしか生き残れないんだ
残念だと思うけど。
それでも許せないだろう。泣き叫びたいだろう。
でもね
キミが助け出されない時点で
証明してるじゃないか
キミが無
私が私であるうちに選べる権利
以前、下記のことを書いたけれど
再度考えてみたい事がでてきた。
突然、ふと何かの巡り合わせかのように出会ってしまうものがある。
そのドキュメンタリーを見たら、思いが溢れてしまった。
今更ながら「彼女は安楽死を選んだ」という番組を見た。
この時代では治癒できない病を背負いながらも、現時点で自分の意思で選択を行使できる間に、自分の人生を決められる手段(権利)は必要なことだと思う。
今の時点
崩壊した世界の空の下で
崩壊した世界であっても
生きるためには、息をして食をして雨風を凌ぐ場所が必要である。
自分を自分として生きていくための戦いでもある。
もちろん、そう簡単なことではない。
ただ最近、崩壊した世界での生き方が少しづつ見えてきた。
順応してきたという結果なのかもしれない。
2000社近くの企業に落とされ
多くの選考に係わるテストに落とされ
孤独の中で生きていき
多くの人に愛を与え続けて
頑張れば頑張るほど広がる傷
自分の人生を生きるために、自分の人生を歩くためには、頑張り続けないといけない。
頑張らない選択肢もあるかもしれない。
でも頑張らない選択をすれば、頑張らないなりの世界なってしまう。
僕の場合、頑張っても頑張っても最悪の結果になるわけで
どちらの選択をしても変わらない世界になってしまう。
頑張っても頑張っても、孤独であることは消えないし、助けてもらえることもない。
僕にとっての助けてもら
僕の人生に起こったことー私のライフ・ヒストリーの概要ー
確かに、人生は何が起こるか分からない。
ちょうど、昔に使っていたUSBが出てきたのも、何かの縁なのだろうか。
僕が、研究上、人生の振り返りをするはずだったときのレジュメが出てきたので、ここで掘り出しておこうと思う。
少し加筆修正もしました。
私のライフ・ヒストリーの概要-お話しできること-
下記から得た私なりのキャリア形成や得たことから言える知見など
・イジメられた経験と不登校の体験 ・
自分のことを好きになってもらう努力
僕のなかで、相手に好かれるためには「相手の好きなものにできる限り寄り添う」ということだった。
だから、嫌いなことも許せないことも、何もかも飲み込んで受け入れようと努力してきた。
自分の中では、心に何もかも引っかかることがなかったとしても、気持ちがモヤモヤするようなことでも
それが当たり前だと思っていた。
だって僕の好きな物は、みんなから「全て気持ち悪い」と思われてきたから。
だって僕の好
誕生日を迎えるたびに
先週の土曜日(15日) に、誕生日を迎えた。
28歳という30歳も目前となった。
色々と頑張ろうとしている部分もありながら、小さい頃に想像していた年齢相応の大人になれていないことに焦りもある。
何もかもがうまくいかない。だからこそ、抗うために出来ることをしながら、社会のために自分のために幸福を追求している。
そんな大それたことを考えても、形になっていないと不安になってしまう。
これだけの
「気が付くこと」も「取り戻すこと」も
約17年間、近くにいた小さな彼が消えた後の家は広く感じる。
小さな彼がいた軌跡を一つずつ片付けていくと実感してくる。
もう少し自分自身に余裕があれば優しくできたのだろうか。そんなことを巡らせることもある。
人生には、「余裕」が不可欠であることがなんとなく理解してきた。
余裕がなければ、配慮することや学ぶことさえも問題が生じてしまう。
無駄はないにせよ、この時間は「自分の気持ちのよいもの」
「ありたい姿」であるためにも
こうでありたい姿や思い描く未来を掴み取る上でも
身体や精神はもちろんのこと
地位や所属が必要になってきてしまう。
正義を貫くにしても、変革を目指すにしても、導師として人々を導くにしても、愛で癒すにしても、戦う者たちの居場所を作るにしろ
先陣を切って行く者は「不安定」であってはならない。
結局、何もかも失ってしまうと「叶える」ことが難しくなる。
いや、自分の生活がギリギリになって娯楽や癒
賑わう年の瀬と孤独な僕の心の中
今年は、人生のなかでもトップ5に入るほどの地獄だった。
全てが終わりになってしまい、底辺を歩まざるを得なくなった。そして、大切にしたいものの見当違いもあり、悲しみが止まらなかった。
だからこそ、気が付いたこともある。
本気で自分自身を見つめ直すために、自分で自分の苦しみを紐解いていくという「死よりも苦しい」行為を続けている。
世界は、新しい年に向かう。多くの人は「誰か」と共に過ごし、悲しみ
何事も「適材適所」で、そして休息を
真実は、残酷である。正しいことや優しいことの恩恵は、失敗しない人だけの特権なのかもしれない。例え、そうだったとしても、僕らは生きねばならない。そう、生きて生きて生き続けて、僕らは溢れるほどの幸福を持つ人々に間違っていることを証明し続けなければならない。
たくさん傷ついてたから、たくさん苦しんだから
そろそろ「向き不向き」を認められるようになってきた。
しかし、それでも僕の場合は、自分に合わな